好きな未来のためにいまを許さない愉しさをもつ

いまだに10年前の人たちが夢のなかにでてくる。

自分のことを覚えている人などいないし、その当時と同じ生活をしている人などどこにもいないのにも関わらずだ。その夢を見ることは自分にとってそれほど楽しくないことだ。でも、もし仮にその当時の記憶をすべて消せるとしたら、どうするだろうかと考えてみると、それはそれで気が進まない。モノを捨てられない人と同じように、つまらない記憶でもないよりはある方が良いと僕は思っているのかもしれない。

些細なことに腹を立てることもできるし、大きなことに腹を立てることもできる。その悩みや憤りの質というものが、その人の質といえるだろう。無感情で平然としていことは理想でもあるけれど、それは何も考えず何も感じないことではなく、素直に考え、感じつつも、それに囚われず、流されないことである。

絶望したいのではないのか、とふと考える。いまだに何かを引きずるのは、まだどこかで希望があると思っているからなのではないのか。想像すること、妄想する内容にも限度がある。今と同じことは、50歳を過ぎたときには希望にすらない。衰えて何も出来なくなったときに、30年前の若い姿で遊びまわる自分を想像しても仕方ない。

テレビゲームやVRを使って違う世界を観ること、テレビを見て違う生活を想像すること、そういうことのすべてが、現在の生活をないがしろにする行為のようにも感じる。工夫も計画もないまま、全く違うものに飛びつくことは非常に安易で退廃的な行いだ。

ポジティブであることや楽観的であること、それにどれくらいの価値があるのだろうか。「まだ何かしら打開策がある」というプロセス志向の楽観さと、「そのままでいい」という結果志向の楽観さには大きな違いがある。いま、SNSにいる人を見ると、大半の上手くいっていない人の原因は、そのポジティブ思考に囚われていることにあるように思う

どう見ても良くない状況であるのに、お互いに褒めあい、許容しあい、自分を許すことを勇気であると思っている。だけど、上手くいっている人を見ると、むしろその反対に位置しているのではないか。

良くない可能性を見つめること、失敗に対して責任を持つこと、嫌な感情を持ったときにその原因を冷静に見つめること、そのような一般的にネガティブと言われるようなものに対する許容性のようなものが必要とされているように思う。その許容性がなければ、現実をただ否定し、安易な娯楽に飛びつき、同じような価値観のなかで過ごすことを「許す」ことになる。

だから、あるべき性質は「許さない」ことなのだ。勇気とは現状を許さないことだ。

自信がなければ、自分の能力に不安があれば、現状を、まわりを許すことしかできない。許して協調することで、派風を立てないことで自分を守るしかないからだ。

現状というのは過去の集積であるので、それを許すというのは過去を肯定することだ。そういう前提で見れば許さないというのは未来を肯定することであるように思う。とはいえ、未来を肯定するために、わざわざ過去を否定することもない。それは未来と過去のどちらに自分の比重を起きたいのかという話である。

 

絶望したいのではないのか、とふと考える。いまだに何かを引きずるのは、まだどこかで希望があると思っているからなのではないのか。想像すること、妄想する内容にも限度がある。今と同じことは、50歳を過ぎたときには希望にすらない。衰えて何も出来なくなったときに、30年前の若い姿で遊びまわる自分を想像しても仕方ない。

 

そう考えると先ほどの問いは少し違ったことに気づくことになる。ここでいう僕の問いは、「わざわざ過去に居場所を求めなくても現状は肯定できるのではないのか?未来のありのままの生活を肯定することで、そういう生活観を持てるのではないか?」という問いであったことに気づく。50歳になったときには、その50歳にふさわしいクールな生活を身に着けていれば良いだけの話なのだから。

 

いま、SNSにいる人を見ると、大半の上手くいっていない人の原因は、そのポジティブ思考に囚われていることにあるように思う

 

こちらの部分も同様だ。つまり自分が問題だと感じているのは、そのポジティブ思考が現状(過去)の肯定にしかなっていないからだ。そして同じような価値観を持っている人と肯定しあうというのも要するに、過去の繰り返しか、それに少しだけ色を付けたようなことを繰り返す要因となりえる。

「あの頃はよかった」「何の価値もない人生だ」。この2つの考え方は、前者は純粋な過去に対するものであり、後者は(過去の集積としての)現在という点で違いはあるけれど、結局は過去の回想であるという点で、実質的には同じものだ。

そのように、いつも過去を見つめて、過去と比べていると、絶望して動けなくなる。変えようのない過去と、その結果としての現在を比べることに何の意味もなくて、単なるダブルバインド(二重拘束)にしかならない。

そういう生活を続けるのはつらいと思う。ましてや、その過去が大してお気に入りのものでもないのであれば。そうであれば、あるべき理想の未来とだけをいまと比べる対象として、絶望をする方がよほどましじゃないのか。もしそうであれば、現状を批判すること(よく見ること=過去のかわりに未来を許容すること)で、ただ現状とその未来との差を修正するだけで良いのだから。

 この話をまとめると、自分にできることというのは、肯定というポジティブな側面を持つ言葉で見るにしても、過去、そして過去の延長としての現在を許すのか、それとも(現状とは違うものとしての)未来を許すのか、といった単純な2択になるのだ。

何も難しい選択ではなくて、「どちらをより好ましいものとして信じたいか」というささやかな自分の本心にもとづく願望に関する話なのだ。どちらが良いという話しではないけれど、もし好きな未来を持ちたいのであれば、いまを許さない愉しさを持つことになるだろう。そして、ここまで考察をしている時点でもうその答えはわかりきっているのである。