変化すること

人生のところどころに自分でさえ多くのチャンスがあって、そのすべてをものにできなかったからこそ今があるのかな、という気もする。そういうふうに何かをするたびに後悔が増えていくとして、失敗や心の痛みだけが思い出になっていくとして、いったいどういう顔をしてこれからも同じようにやっていけるんだろう。

多分だけど、その節々で少なからず学習してきたのではないかと思う。こういうことを繰り返すべきではないとか、これはただつらいだけだとか。でも、それをどこまで反映させてきたのか、というと疑問が残る。PDCAで言えば、DとCの部分だけを質の低いままで繰り返しているようなものだ。

学習は確かに重要で、色々なアウトプットも含めて学習の過程ととらえるのはシンプルで良いような気もするけれど、やはりそれ以上に変化ということを考えた方がスッキリとしているな、と感じたりもする。学習することは変化をするために必要なことだし、そこまでをセットとして考えないと、そもそも学習したともいえない。知性とは何かということを考えるにしても「適切に学習してそれを反映させること」でなければ、いつまでもお遊びでしか過ぎない。

決断というのが、何かを断つことであるというのが文字通り真義であるのならば、自分がまず絶たなければいけないのは、自分自身だ。過去の記憶、過去のパターン。後悔をリソースと見なさないで、ただの痛みを従う記憶としてそのまま向き合おうとするのならば、たぶん同じ後悔を繰り返すことになる。注意を向けたものとは同調するような働きが心理にはあるからだ。

逆に言えば失敗や後悔が示唆するものがある限りは変化ができる。その示唆に目を向けるだけで良いのだから。