小さく楽しく批判すること

「批判はその先にあるものを捉えなければいけない」だっけ、なんかもっとカッコよかった気がするけれど、そういう言葉をどこかで読んで。

色々とチャレンジ精神だとかガッツだとか勇気だとか、魅力的な人の特性について語られることはあるけれど、「いちばん気軽で便利」という意味では批判精神を持つことが良さそうだな、と思った。

批判という言葉は、例えばカントの判断力批判みたいなタイトルからもわかるように「よく考えること・よく見ること」だ。それ以上の意味は本来なくて、もちろん非難のようなただの悪口とも全く異なるものなのだ。

では、なぜ批判するのか、という思想・哲学の部分が、実際に「批判する」というツール・手段以上に重要であるのだが、それは「より良い未来を確信していること」と一言で言ってしまうとわかりやすいように思う。

なぜ批判するのか、それも悪口ではなく批判する理由。好奇心を満たすということもあるけど、それ以上に「もっと良くなる/もっと魅力的になる/もっとわかりやすくなる」という洗練さへの憧憬のようなものだろう。

また、「Nobody's Perfect」という、とある映画で最後で笑顔で語る台詞のように不完全さを許容し、何ならperfectという終着点以上にその過程の変化へ愉しさを見出せる態度のあらわれでもある。

このように楽しい批判だけど、その言葉の印象はわりと重い。だけど、本来の方向性からいうともっと軽く、気軽に批判すれば良い。

最近はSEOを学んでいて「60%くらいのできで小さなテストを積み重ねる」という考え方になじんでいる。最初から100を目指さない。60で市場に価値を問い、反応が良かったら改善を積み重ねれば良い。そういう「小さな改善」という考え方が、最近読んだ「Atomic Habits」もあわせて好きになっている。

このことを教訓にして考えれば批判も同じように「60%くらいで小さく批判する」ことを積み重ねれば良いのだ。深刻にならずに、重大にとらえずに、楽しく、リラックスして。

 

僕は英語の勉強をするけど、例えば発音の勉強をするとき、一番効果的なのは自分でレコードして改善を続けることだと思っている。だけど多くの人はしない。うんざりしてため息をつくのが嫌だからだ。そして改善ということにはこういう「失敗は良くない」みたいな別のイメージがまた邪魔をする。

でも、もしそれがでたらめだったら?今まで避けていた批判が実は自己満足よりも楽しいものだったとしたら?目的が実は正反対でも、同様に機能するとするならば?自分の声を聞いて「これはひどい」とけらけら笑いながら、毎日改善を続ければ?

ほんのちょっとの違いだけれど、その先にあるものはまるで違う結果であるように思う。