時間が教えてくれるもの

いまの僕が感じるものや、所有しているもの、頭のなかで思い描いているもの、そういうものの多くは、今ならばまだ許されるかもしれないが、50歳や60歳になるころには到底受け入れられないだろうと思う。許される、というのは、自分自身がその関心を持つことを許すことができる限界のことであり、外部における社会上の制約のことではない。

たとえば結婚したいとか子供を持ちたいというような願望もそうだし、自殺したいとか気分が優れない、とかそういう不調を思わせる、不快感をあらわにするような感情的な表現もそうだ。いまのまわりの社会は、大学の入学にも結婚にも年齢制限がないように、社会的な標準との折り合いはあるものの、自分自身が抵抗さえなければ、認められるものはかなり多い。

そのことに関して、ぼくはまわりの目なんか気にしないで好きなときに好きなことをやるのだ、と言うこと自体は優しいが、精神的な制約を完全に無視することはできないと思う。誰かに感謝をしたいと思っても、その感謝をする気持ちもいつかは無くなり、その感謝をする対象もいつかはいなくなる。機会の損失ばかりに目を向けたいわけではないが、ぼくが年をとり、50歳や100歳になったとしても、ふさわしいと思えることはどれくらいあるのだろうと思うと、あまり見えてくるものがないのだ。

その反対に、自分自身がまだ若いとか未熟だとか初心者だから、だとかそういう、例えて言うのであれば、”下から目線”と言えるような、傲慢さも少なくないだろう。ぼくは当たり前のように、飽きることもなく、死にたい、つらい、気分が優れない、自殺したいと頭のなかで繰り返してきていたが、その思いのなかには、いまならまだそういうことを自分自身に感じることを許すことができる、というような甘えがあり、時間がたつにつれて、ぼくはもはやそれを自分に”許せなくなる”というただその一点によって、案外手放すことになるのではないか、とも思うのだ。

まわりのひとが就職をしているから、とか結婚をしているから、とかそういう焦りや制約に真っ向から対抗してやりたいという気持ちは僕にはさらさらなく、自分にとってためになるのであればむしろ利用できればいいな、と思っている。無意識の焦りや恐怖がどこかにないと、締め切りがないと、時間の経過による景色の変遷がないと、ぼくはいつまでも死ねないまま、いまと同じ場所に留まり続けることを許してしまえるのだ。

そのように許せることによって不逞を働き、許せないことによって、特定の良い方向が見えてくることがある。このように見ていくと、ある意味では、自由というのは制約そのものなのだ。そうして、不自由ということは、何でも流されるままに、見たものや感じたものに抵抗の方法もわからずに反応しつづけることでもある。

たまたまそれが良い反応であったり、悪い反応であったりする。子供というのは、そのように、自由であることによって危険なのだ。自由だから誰かに守られる必要があり、人生を台無しにしない方向を指し示す必要がある。

そのため、この文脈におけるような自由を、良い大人がもっているのは悲惨なのだ。もしも、自分の子供が危険な目に遭っているときに、助けるか助けないかで迷えてしまうのであれば、何かが間違っていると思うだろう。同様に、20代や30代をすぎても、いつまでも生きるか死ぬかという2つ以上の選択肢を持っていること、50歳をすぎて、さて自分の人生では何をやるべきなのかな?と考える余地があること、それらのことも同様に、何かしらの良くない傾向を示唆している。

このように、自由という言葉が指し示すポジティブな兆候な、ある段階を超えて、拡散から収斂へと転化する。

義務教育のように誰かが崇高な理念や意志のもとで用意してくれる強力な制約はいつかはなくなるのであるから、それに代わる制約(value)を自分自身で保持する必要がある。そうでなければ、目の前の広告やプロダクト、芸能人の不倫のニュース、スマホの光、SNSの意味のないやりとり、とりとめのない感情などが、自分自身の生活の強力な制約となり、そのひとを自由へと突き放すことになる。

それでは、あらためて、年をとる、というのはどういう経験なんだろうか。つまりは、制約が増え続けていくことであり、その認識によってやるべきことや感じるものに疑いがなくなることなんだと思う。

ぼくは、もし生きつづけるのであれば、自分の人生のピークは60歳くらいになると良いなと思っている。もしくは、今の状況であれば、それは80歳でも良いのかもしれない。それなのに、20や30代で一番輝いて、あとは衰える一方なんていう価値観は許せないのである。

だから考える。もしいまぼくが100歳になるのであれば、今の状況をどう見るのだろう。金銭的不安、死別、体力の衰えなど、ありとあらゆる制約にまみれる経験を経たなかで、それでも美しく見えるものは何だろう。また、そのなかで、いまここにしかない、貴重な制約はなんだろうか。そして、それを見ようともしないで、生きることと、死ぬことの境目でただ揺れ続けている経験は、何を前提にしているのだろうか?

そうやって、時間が教えてくれるものや教えてくれていたものを、いま一度あらためて見れたらなと今はそう感じるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

メモ1 そのほかの要素、とくに意志について

このように、まわりにあるものや、それを成り立たせているものを見ることそのものが勇気、努力、困難などありとあらゆる”用意”(意志)を不要にしていく。ものごとは自明なのであり、語るのは自分ではなくて事物(世界)なのだ。先ほど、自分の子供が危険な目にあっているときに助けることを迷うだろうか、と書いたけど、ものごとを本質的に見通せているときに、そこにあるのは、意志ではなく静かな衝動なのである。目的ではなく理由なのだ。この場合であれば、子供は大切であり、自分の子供を好きであるという単純な理由(reason→理性)がある。(いろいろと過程を省略)

 

メモ2 制約を制約することによる許容性の拡大について

誰かと一緒に過ごすとき、興味のないひとであれば、面白い話でもしなければ場がもたないかもしれないけど、好きなひとであれば、どのような話でも許容できるし、いくらでも時間を使って話したいとさえ思うだろう。反対にいえば、それが好きなひとでなかったのであれば、その先の話はごく一部のタメになるものしか受け入れられないし、時間が過ぎていくことがもったいないと感じるなど、多くの別の視点がでてくることになる。

このように、初めに選ぶこと、つまり自分の希望以外の選択肢を許さないという取捨選択がなければ、その先にあるあらゆるものがごく一部の例外を除いて、許せなくなる。何かを許さない、というこの話における制約は、物理的な制約をもって精神的な制約を解放する意味合いを含む。どちらが重要だろうか? この制約の制約というのは哲学のひとつの役割のように感じる。

メモ3

 

 

 

最終的に落ち着く場所がいつもの見慣れた場所であったとしても僕はそれでかまわないとおもう。

それは本質でも、その物語の魅力を語る部分でもない。自由は制約でありえるのであれば、時間なんていうのはまさにその制約の代表たるものであり、つまり人生が有限であることが自由を象徴するような美学もありそう、という話なのカモしれない。ここで改めて考えようとしていたことは、自由って良いよねというありふれた話の一つであり、その自由が指し示す場所は別にどこでも良いということを一緒に感じている。

 

メモ4  信じることは見えることより弱いということ

 それでは、あらためて、年をとる、というのはどういう経験なんだろうか。つまりは、制約が増え続けていくことであり、その認識によってやるべきことや感じるものに疑いがなくなることなんだと思う。

見えることにただそのものによってやることがわかる、という流れのなかには、本来は信じる、という過程が不要なのである。だから信念ではなく認識という言葉を使う。

想像上のものであったとしても高い臨場感で見えるものに、それを信じるという余計な行為は存在しない。目の前のテーブルにスマホが置いてあることを、そこにスマホがあると私は信じている、とは言わない。その代わりにスマートホンが置いてある、と言うはずだ。

 信じるという言葉は、何か崇高なもののように語られることが多いと思うが、意志という表層的なものの延長にあるものであり、”存在しないかもしれない”という曖昧さを前提としている。

このことから信じることは見えることに比べて幾分不明確さがあることがわかる。また、逆に言えば見えているものでさえ、そう信じているに過ぎず、スマホを手に取ったときに重みを感じること、硬さを感じること、そいういうものの積み重ねによって、スマホをいま持っていると信じているのだ。

そのうえで、信じることと見えることを明確に区分する必要があるのかはともかくとして、見える、という言葉を使うときには、信じるという言葉を使うときよりも、より強い承認をもって事に当たっている、と言えるだろう。夢や目標は、信じるものなのかそこに見えるものなのか。正しく捉えることが重要なのであればそれは信じるもの言った方が良いように思うけど、この文脈のもとに、正しく捉えるということが意味をするものは、必然性と自由との境目における自分自身の許容の範囲と言うことができるように思う。

 

いつもの暗い場所、暗いもの

たくさんの本を読んでみたり、新しい経験を積み重ねてみたり、そうやって何か少しだけ生きているのがましに思えるようなことをしてみたところで、根本にあるものが変わっているのか、と思うと疑問が残る。多分、それは変わらないのだろう。好きになるとか、嫌いになるとか、そういう話しではないのだ。

空気が淀み、目の前にあるものが前にも見たことがあるものだと気が付く。そして当たり前のように疲れて、嫌になる。そういう時に、うんざりした気持ちで本やモニターから目を逸らし、目をつぶって、見過ぎたものを忘れようとする。

そのときに感じる胸の奥にいつまでもあるような不快感、やってられないという気持ち、何度も忘れられないまま反芻される楽しくない記憶、それを抑えようとする健全な考え方、少しづつそうやって積み重なっていくものが、疲労を感じて目をつぶると眼下に浮かんでくる。そして、そのときにだけ僕は現実というものを実感する。これが現実なんだと感じてしまう。

楽しくて心地良い時間は、その現実を少しばかり遠くに追いやるだけで、追いやったところで、いつかはまた同じようにやってくるのだ。多少、前よりも遠くまで投げられるようになっただけで、何かを変えているわけではない。

この半年くらいで、また大きく変わったこともある。死にたいという気分を追いやれないまま朝を迎えることも、天井を眺めたまま一日を終えることも、ほとんどなくなったと思う。僕は多分、少しだけ忘れることが上手になった。前よりも長く忘れていられるようになったのだ。

その合間に戻ってくる、その暗い場所はいつも同じだ。空気が淀んでいて、使い古された同じ記憶が待っている。そして、くだらないことだとはわかっていても、同じように少しだけ悲しくなる。

なんとなくこの生活に望んでいることは、多分それほど大きくは変わっていない。目の前にあることを、嫌なことを減らして良いことを増やすために、ただひとつづつ、淡々と丁寧にこなせれば、と思う。別にそれが必ずしも、自分ごとである必要もないだろう。信念でもなく単なる事実として、嫌なこともつきないし、良いこともつきないのだ。醜いものがありふれているのと同じように、美しいことだってありふれている。

どの仕事も、大きすぎることも小さすぎることもない、というのは最近読んだPeter Thielの本の片隅に載っていた言葉だけど、僕はこの言葉を好きになる気がする。その言葉を実感できることが増えれば、また少しだけ近づける気がするからだ。

他人を避ける

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(削除したブログからの移行記事です)

 

昨日から今日の朝にかけて憂うつな気分だった。

原因は、思いやりのない人と接する機会が複数あったことだ。そういうことは今に限ったことではないし、気にしないようにしようとすれば、そうすることもできる。ただ、ずいぶんと子供のころから、こういう人たちのせいで自分の人生は翻弄されてきたんだという風にネガティブな感情とともに、面白くなかった経験がつぎからつぎへと思い浮かんで気分が沈み切ってしまった。

何か嫌なことが起きているとき、その当人に原因があることもあるがまったく原因がないことだって少なくない。理由もなく攻撃的なひと、人が嫌がることを好むひと、そういう人たちだってたくさんいる。

だから、それはそういうものなのだ、と思い込むこともできる。苛々してしまうとすれば、彼らが自分と同じ能力や倫理を持っているのにも関わらずそれに外れたことをしていると考えている。

でも、そうしないこともできる。「彼らは病んでいて、自分たちとは全く違う生き物なんだ。だから腹を立てたりしないで、優しくしてあげないといけない」と。そう考えることで、随分と腹が立つことは少なくなる。ただそうやって色々なものを遠ざけ続けることによって、自分がどこにいて、誰と生活を共にしているのかがわからなくなる。

何にもまして憂うつな気分になるのは、そのほとんどの場合に、間違っているのは自分だという風にとらえて、その場所に自分がいることに居心地の悪さを感じるからだ。誰かが僕のことを突然殴ったとしても、そんな場所にいて、そんな世界でぼんやりといきている自分が悪いのだ、とどこまでも自己評価が低くなる。とはいえ、この「自分が間違っている」という言葉にはなんの根拠もない。実際に、最近では他人の意見をほとんど聞かず、助言を貰っても違和感を感じるときは、自分の直感をもとに行動している。そして、そういうときは、わりと上手くいくいことが多い。

今までの経験のなかで、自分から見て上手くいっていると思うことの大半は、自分の価値観に従った時であるように思う。もちろん、それは思い込みかもしれないが、とにかくもただ何となく正しそうな助言に従ったことで、随分とつまらない目に会ったのは確かである。

でも、だからといって、やはり自分のやり方が正しいんだ、と主張したいわけではない。どちらが正しいかなんていうのは実際どうでもよかったりする。しかし、そういうふうにコンフリクトを感じることが、ただただ多くて、その多さに嫌気がさすのだ。いつまでも、勝ち続けたり、あるいは負け続けたり、そうやって対立しているものを天秤にかけ、勝負をし続けること自体が面白くない。

この、なにが正しくて、なにが間違っているのか、という考え方は厄介だ。世の中の多くのことは正しいことと、正しくないことがごちゃ混ぜになっていて、その是非は、その場所の雰囲気のようなもので決まる。ここでいう間違っているというのは、その場のコンテクストに相応しくないということであり、ある文脈のうえでは正しいものでも、ほかの場所では見当違いのものとなる。この際に、少数であるほうが多数に文句を言うのは間違っている。どれだけ、それが正しそうに見えたとしてもだ。

そういう風に考えると、ある種の自分探しというのは、自分の固有の性質が相応しいとみなされる持続的なコンテクスト(環境)を探すことだ。そうでなければ、環境が変わるたびに自信を失い続けなければいけなくなる。

しかし、だからといって、見つかる当てもなくいつまでもぐるぐる探し回る必要はあるのだろうか。その環境を、その世界観を、自分で用意/表現 してしまえばもっと手っ取り早いのではないのか。

僕がここで書いたことというのは、自分のコミュニケーションの下手さにもとづく回避策のようなものだ。どちらかといえば、僕は人のことが好きである。いろいろな人と楽しく関われたらと思う。だけど、大半のひとは自分のことが好きではない。そしてその原因は自分にあり、誰かが悪いわけではない。そして冒頭に書いたように、そのようないつもの憂うつさをきっかけに、過去のいろいろな嫌なことが連鎖的に頭のなかに渦巻いて嫌気がさしながらも考えていて、そのさいにふと思った。

人と上手くやっていきたいとか、もしくは煩わされるくらいなら一切人間関係を放棄して気にしないようにしたいとか、そういうことばかり考えてているが、そもそも周囲との調和を図ったり、あるいは対立することがコミュニケーションのすべてなのか、といえば、決してそうではないだろう。

なぜ、いま僕はわざわざこんなことを書いているのか。もしくは、なぜ誰かが熱心に音楽を作ったり、絵を描いたり、仕事に打ち込んでいるのだろう。僕がコミュニケーションという言葉を使うとき、そのほとんどが言語・非言語を問わず、身近な誰かと何かを明示的にやり取りして、そのフィードバック(評価)を受けることをさしている。そのフィードバックは時には心地よいもので、ときにはそうではない。

しかし、ある種のひとは、そういうやり取りの外にいて泰然としている気がする。反応の渦のなかにいて一喜一憂していることは少ない。でも、だからといってコミュニケーションを放棄しているようにも見えない。

例えば、アーティストのような人たちがそれに近い。1日の大半の時間を人と離れた空間にいて、他人の書いた創作物に触れる時間も少ない。それよりも自分の内からでるもの、そしてそれを表現する技術を高めることに多くの関心を払っている。

ではその”内にあるもの”とはいったい何なのか。無からものが生まれない以上、それは今までその人が外から受け取ったものの主観的な総和であり、表現というものは、自分自身の経験の2次創作として、自分なりに解釈した世界観の再構成に他ならないと思う。

経営学では「イノベーションとは新結合である」という言葉もあるが、自分の内にあるものが他人と全く同じになることはない。だから、それをそのまま表すことが創作となる。だったら他人と接点を持つことのかわりに、この創作にもっと関わることはできないのか。それは他者からの評価を受け取るためではなくて、情報のやり取りに意義を感じているからでもなくて、そうすることによって、誰かに失望され、自分に失望し続ける不快感から抜けたままでも、世界と関わっているという実感を持てる気がするからだ。

そしてこの世界と関わるという、もしくはその世界のなかで居場所をもつということが、コミュニケーションの本質であって、目の前の感情のやり取りはコミュニケーションの一部ではあっても、決して全体にはなりえない。ようするに、ただ1人で残りの人生を生きることになったとしても、コミュニケーションは可能なのだ。同じようにどこかで試行錯誤を重ねているひとたちと心を通じ合わせたり、創作をしてみたりと、そういうこともできるだろう。

*

と、ここまで書いてきて、ふとそのわがまま具合に笑ってしまいそうになる。それはただ、批判もなにもされたくないという都合のよい世界の妄想だ。ただ好きなようにして、ただ好きなように批判されればよい。ほんとうはその一点なのかもしれない。

 努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野の間にぽつりぽつりと光っているあの灯火たちと心を通じあうことだ。 サン・テグジュペリ『人間の土地』

 

 

 

 

続ける理由を考える

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最近、新規で作ったアカウントで、"何か一つことに夢中になることはそれ自体ストレス解消の効果があるかも"みたいなツイートをしたのですが、そのことに関して、のメモを書いていきます。

 

**

ほとんど毎日暇なときには、違うことを考えているので、メモでも残しておかないと一瞬で忘れてしまう。だからといって毎日メモを残しておいたところで、それが何かになるかといえば何にもならないところが困ってしまう。

原因療法、対症療法という言葉があるようだけど、その日に思ったことをその日の感覚に基づいてまとめてみたところで、根本的な解決にはならないと思う。でも、解決にならずとも、続けていることは思っている以上に多くある。そして、本人が望んでいることもあるけれど、望んでいないことも多い。

いったいなぜそれを続けるのだろう、という根本的なことを考えると、そのこと自体が治療になっているからだ。退屈である苦痛から逃れるためにYouTubeの動画を眺めてみたり、同じ悩みをもっている人のコミュニティーで事例を共有しあったり、自分の倫理観やアイデンティティと一致していることを行うことによって落ちついた気分になったり。僕自身がたとえば、Twitterやこのブログを好き勝手に更新しているのは、同じように、自分の頭のなかにあるもやもやをそのままにしておくことが苦痛だからなのだと思う。

そのように、僕が日々とくに意識をせずに続けられていることの多くにはある種の鎮静作用がある。習慣になった作業は、続けないと落ち着かなくなり、あまりに美しい体験をするとそれがない景色がいつもより淡く見えたりする。

しかし、このことを肯定しようとすると、ほんの少しの後ろめたさを感じてしまう気がする。その営みが自分の生活の大半をもし占めるのだとすれば、ただ痛みから逃れ、ただもどかしさから離れるための生活に何の価値があるのだろうと考えてしまう。

とはいえ、と考える。即座に同意してくれる人は少ないかもしれないけれど、多くのことはこのように、”ある状態”から”ない状態”へ変遷していくことを美しさや尊さと定義しているように思うのだ。知覚として生じてから淀みなく解消される過程、と言った方が良いかもしれない。

例えば、ぼくは快楽の本質は”失うこと”にあると思う。具体的な例をあげると、多くの人は何かが欲しいと強烈に思っているときは、そのものを手に入れた瞬間に一番快楽を感じる。もし高級なカメラを買うのであれば、それを使用している自分を想像して買うものだとは思うけど、実際に一番嬉しいときは、買った瞬間という多いはずだ。

そのカメラを持つということがその人のステータスであった場合には、買った瞬間に”たまっていた思い”が解消される。その結果、買ったけどそのあとは放置しているということも起こりえる。反対に”カメラマン”というステータスを持つためにカメラを購入した場合は、その後も続ける可能性が高い。なぜなら、その欲求はまだ解消されていないからだ。

それが欲求と呼ばれようが、痛みと呼ばれようが、もしくは正義感と呼ばれようが、本質的には大して変わらずに、多くのひとがそれをまず知覚して、そしてそれを失う(解消する)。そしてそれがポジティブな場面では、その失うことを”達成する”とか”手に入れる”と呼んでいる。このことに限っていえば、それほどわかりにくい話しでもないように思う。

 その営みが自分の生活の大半をもし占めるのだとすれば、ただ痛みから逃れ、ただもどかしさから離れるための生活に何の価値があるのだろうと考えてしまう。

 このように”失う”ということは、生活のなかで当たり前のように受け入れられていることであるけれど、日常的にその言葉が使われている背景から考えて、多少の抵抗を感じるものだと思う。

このことに関しては、僕のなかではある程度の憶測は既に立っていて、それは、”ひとはいったい何をして生きれば良いのか?”という問いにもつながるのではあるけれど、そもそもの人の幸福の根源は、ようするに、”自分のなかで見出せるエネルギーを消費し続ける”ことにあるのではないか、といまは考えている。ありていに言えば、全力を出し切ることだ。

 このエネルギーを消費する、ということが失うことのプロセスであり、私たちはより多くのエネルギーをより効率よく失う手段を探しているように思う。そしていまここで触れたように、”このようにエネルギーを消費することそのもの”に、多くのひとは肯定的な感情を付随することを当然のようにしてきているのだ。

 

mistnotes.hatenablog.com

ここから少しだけ、この記事を補足するような形で、文章を続けようと思う。この記事のなかで僕は、”私を滅する”ことと”個性的であろうとすること”は、お互いに補完する関係にあるというような考察をした。簡単にいえば、自分に向いている好きなことに夢中になっていれれば、その技術を使って誰かを助けられるかもしれないし、余計なことも考えなくてて良くなるよね、という一般的な話だと思う。

そして、いまこの記事で書いたことを踏まえて、これを言い換えると、エネルギーを消費する一番効率的な方法が、そのように好きなことに夢中になることなのだ。そしてそれを通して、わたしたちは私たちにとって一番大きな課題ともいえる”自分自身を失う(消費する)”ことができ、人によってはより大きな組織やより普遍的な問題に関わり、”社会的な課題を失う(消費する→解決する)”ことができる。

”エネルギーを消費する”という考え自体は、以前読んだことのあるジョルジュ・バタイユの後期の作品(『呪われた部分』)にある考え方から発想を得ている。彼は、私たちの営んでいる社会というものは過剰なエネルギーを消費するためのシステムである、というようなことを述べているのだ。

 

そもそもの人の幸福の根源は、ようするに、”自分のなかで見出せるエネルギーを消費し続ける”ことにあるのではないか、といまは考えている。ありていに言えば、全力を出し切ることだ。

 

 最後に少しだけ補足すると、エネルギーというのはそのように内外から知覚することによって見出すものであって、最初から容量が決まっているものでも、出し切れるものでもない。だから、ここでいう”消費し続ける”というのは、効率よく循環を続けるということである。へとへとになっても、回復する機能があるので、次の日には元気に起き上がれたりする。

何か問題が生じたとき、意図的に知覚を止めてしまうことがある。また、知覚そのものに問題が生じることもある。仕事から帰ってこれ以上動けないと思っても、知り合いからパーティーの誘いの電話でも来れば、疲れを”忘れて”、動きまわったりすることもできる。ここではこれ以上触れないけれど、この”忘れる”ということもひとつの喪失なのかもしれない。

 

こんなことを書いていても、僕はいまでも、日によっては朝から辛い気分をひきずりながらベッドでひたすら寝ていたりしている。ちょっとした息抜きのために書いているだけだ。だけど、まとまった量の文章を書いているとき、自然と集中しているし、気分が晴れてくるような気はしている。

後ろめたさがあるとき、意義を見出せないとき、何かしらの抵抗があるとき、それを平然と続けることはできずに、漠然と続けているのではないか、と思う。何かを意志すること、自分自身によって選択すること、夢中になって続けられること、これをやると決められるもの、そうやって何かを平然と続けられるようになったとき、僕の憂うつさも少しはましになるのかもしれないし、ならないのかもしれない。

悲しいときに悲しい曲をきくこと、元気な気分で元気な友達と笑いあうこと、そのように親和性の高い(気が散る要素が少なく、より自然に集中できる)行動をとるとき、私たちは心のなかのわだかまり、この文脈でいえば昇華されていないエネルギーのようなものを、そのように効率的に(問題に集中することそのものによって)解消しているのではないかと思う。しかし、何かをやらされたり、惰性のみで続けている限りはそうではない。

もう、言葉遣いはどうでも良いのだけど、自分を苦しめ続けているなにかには、”もう取り返しのつかない”という無意識の感覚があるのではないか、と思う。それは過去の思い出や傷であったりすることから、取り出して、解消することのできない何かであると思い込んでいる。だけども、私たちの心は比喩でいうように、花瓶やなんかと違って、それほどもろいものではないと思っている。そこに根拠はなくて単なる願いではあるけれど、少なくてもそれを否定しきる十分は材料はまだないはずだ。ましてや、ひとつひとつの出来事に絶対的な意味があるわけでもない。

そして、これも憶測になるのだけど、その虚無感というのはようするに、自分はすでにすべてをうしなってしまったというような感覚的なやるせなさ、なのではないかと思う。自分の知覚するもの(知覚する価値があると感じているもの)がすべて、すでにあるべき形、もしくは変えようのないものであって、自分が手を出す(消費する、介在する)ものではないと感じる、失うことなく疎外される瞬間なのだ。

 

 「若者たちは現実というものが少しも頼るに足らぬ儚い事物ばかりで出来た世界である
ことを、そしてわけても他ならぬ自分自身がそれらの儚い物の一つであることを痛烈に
意識し始めていた。彼らはなんとかしてこの悲しい状態から出口を見出そうとして身悶
えした。儚い事物の一つであることを止めて永遠の生命を享受する存在になろうとした。当時の代表的な詩歌には『永生』(khulūd) という言葉が繰り返し現われて来る。」

井筒俊彦イスラーム生誕』から

 

どうせ死ぬのになぜ一生懸命生きるのか - Lemon & Citrus

から再び引用。

 

繰り返すが、前述の問題というのは、失ってしまったことではなく、これ以上失えないこと、これ以上介在できないことにある。希少性のあるものを失うことと、100個のピーナツが99個になる瞬間は同じになりえない。では、失ったあとに残る未練と達成感の違いは何かというと、これも、この文脈によって、より 純粋に/完全に/全面的に 消費できたか、という話になるのだ。

わたしたちは、何かを欲しい、何かをしたいという欲求のあとに、何かと永遠に、少しでも長く携わりたいと思うようになる。会社(going concern)の繁栄も自分の関心のある領域の洗練化なども含めて、自然と自分が携わるものが高度に続いていくことへと関心が向かっていく。DNAのなかに永遠に対する焦がれのようなものが、どこかにあるのだとすれば、ようするに、関心や献身を含めた莫大なエネルギーの効率的な消費が示唆されるものに対する憧憬なのではないのかな、と思う。

僕自身もまた考える暇もなく色々なことを続けているけれど、そのなかにもやはり無意識なレベルの優先度はあるように思う。

そのことを思うに、”いったいなぜそれを続けているのだろう”という問いに答えるような形で、僕は目の前にあるものを改めて眺めてみることもできるだろう。というのもそれは、続けるに足るものであれば続け、そうでないのであればただ止めるだけの話なのだ。

 

そのときに見えてくるもの、そのときに感じるもの。

僕はそういうものをこれ以上無視したくないと思う。

 

 

 

 

(もう朝だ...)

 

 

 

mistnotes.hatenablog.com

 

 

 

 

(補足)書かなかったけど書いているあいだに何となく思い出していたものリスト

利己的な遺伝子 <増補新装版>

権利のための闘争 (岩波文庫)

デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化

自由からの逃走 新版

呪われた部分 (ちくま学芸文庫)

 

宮崎駿監督が『アーヤと魔女』を語る、そして、今足りないものとは… Hayao Miyazaki(2020.12.29) - YouTube

 

(補足2)

気分がのったらDMN(デフォルトモードネットワーク)と美意識の本質、みたいなタイトルでまた記事をかくカモしれません(書かない)

読んだ本の感想記事、再魔術化する世界での生き方について

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僕が思うに思考体力のある人間は常にマジです。自分の人生の問いについて24時間、365日考え続けている。そんな人がたまにいます。

落合陽一『これからの世界を作る仲間たちへ』

専門的な暗黙知を持つクリエイティブ・クラスを目指す

 

面白かった本は定期的に読み返し、メモを残しておこうかなと思ったので、さっそく1冊目の再読記録をつけることにする。なお、僕は書籍に限らずレビューなどを今まで書いたことがないので、自分の感想を共有したいというよりは、あくまで大まかな内容を後になっても簡単に振り返ることができるくらいの丁寧さを目標に、続けていければよいなと思う。

落合陽一さんという日本の研究者、大学教員の方が書いた本。著者の研究分野と関わりのある、IT方面の最近の動向を探りながら、これからの時代を生きるために必要な姿勢について考察をしていくスタイル。前半の方では、割とよく見られる論調でもある、一部の専門性・独自性を持つ人たちだけが生き残れるようになり、簡単に再現可能なスキルを身に付けることにいくら労力を割いても、すぐに模倣、分析されることから、いつでも代替可能な人材(別に誰でも良いひと)としてしか生きていくことができなくなるよ、といったような話。

ただし、Morris Bermanの「デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化」から来ているであろう「脱魔術化」「再魔術化」といったワードや、ナレッジマネジメントの分野でも使用されている、「暗黙知(マイケル・ポランニーによって命名)」といった概念を用いて、巧みに説明しているところがこの本の面白いところ。

今までの有史の世界では、「火を使用して食品を加熱すれば腐りにくくなる」といったような偶然の発見から始まる知恵を蓄積していき、後になってから、化学の発展等によりそのメカニズムを解明してきた。

これは、「理由(仕組み・原理)はわからないけどとにかく便利なこと(ここではそれを魔術と呼ぶ)」を科学的手法によって解明(脱魔術化)してきたと言うことができる。

今までの歴史というのは、偶然から始まったこの魔法の世界(なんだかわからないけど便利なことがたくさんある世界)から脱魔術化すること(それぞれを解明・体系化すること)を一つの目的としていて、それによって単に使えるだけではなく、それを再現して誰でも共有できるような、つまり知識を集合知として社会全体に浸透化させる、ということを行ってきた。

ところが、今の時代は、反対に「再魔術化」が進んでいるという。IT技術をはじめとする高度で複雑な仕組みが発展していき、ICカードスマートフォンVR映像など、誰もが簡単に使いこなしているが、どういう仕組みでそれらが機能しているのかをちゃんと説明できる人は少ない。

先ほどの触れたように、解明済の誰もが再現可能な知識を”形式知”(共用された知識)と呼ぶならば、後述したような一部の専門家しか理解できていないような知識は”暗黙知”(共用されていない知識)と呼ぶことができる。そしてこの暗黙知に熟達しているならば、その人は代替可能な使い捨て人材ではなく、重宝される唯一無二の人材になりえるというのだ。

世の中にはサービスを提供する側と、提供されたものを使う側がいる。どれほど独自性があり複雑なもの(魔術)でも、著者の言葉を借りれば、”その魔術の裏側には「魔術師」や「魔法使い」が必ず存在している”。この魔術、暗黙知を持って、その人にしかできないオリジナリティのあるものを人々に提供できる人たちこそが、クリエイティブ・クラスと呼ばれるような今をときめく創造者であり、私たちはそれを目指していかなければならない。

では、どうやってその暗黙知を深めていけばよいのか。また、もしその暗黙知がとても限られた小さな問題であり、世の中の多くの人にとって魅力的なものではないとしたら?

それについては著者がこの書籍の中で具体的に述べているのでここでは深く言及しないが、例えば「日本の1億人ではなく世界の70億人を相手にしよう」「解決したい「小さな問題」を探そう」等と、あくまで理想論としてではなく、自分の身近な仕事の視線で考えられるような方法を提唱している。

 

大人から「好きなことを見つけろ」「やりたいことを探せ」と言われると、「僕は何が好きなんだろう」と自分の内面に目を向ける人が多いでしょう。そこからいわゆる「自分探しの旅」みたいなものが始まるわけですが、これは袋小路に行きあたってしまうことが少なくありません。

しかし「自分が解決したいと思う小さな問題を探せ」と言われたら、どうでしょう。意識は外の世界へ向かうはずです。そうやって探したときに、なぜか自分には気になって仕方がない問題があれば、それが「好きなこと」「やりたいこと」ではないでしょうか。

また、その「好きなこと」「やりたいこと」を探るための問いかけとして、下記のような視点を持つことをおすすめしている。

・それによって誰が幸せになるのか。
・なぜいま、その問題なのか。なぜ先人たちはそれができなかったのか。
・過去の何を受け継いでそのアイデアに到達したのか。
・どこに行けばそれができるのか。
・実現のためのスキルはほかの人が到達しにくいものか。


自分の価値=オリジナリティと専門性を活かして、これまで人類が誰も到達できなかった地点に立つ

そんな感じの解説のみでこの本が終わっていたのならば、僕はすでに「デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化」を読了しているので、良いこと書いてあったなくらいな印象で終わっていたと思う。

そうではなくて、自分にとってこの本がわざわざ感想をまとめたいと思える印象的なものになったのは、この後の「じゃあ結局何をすればいいの?」ということへの著者の考え方や、それに対する「ガチで取り組む」というそのストレートすぎる姿勢に共感できた点にあったように思う。 


人は歳を取れば取るほど「何のために生きるのか」を考えなくなり、目の前の幸福や不幸に右往左往しながら暮らしていくものですが、信念を持っている人間はその問いへの明確な答えを持つことができます。それは、「いまできる人類の最高到達点に足跡を残す」ということです。

これはちょっとマッチョな、筋肉質な考え方だとも言えますが、少なくとも僕はそれしか考えていませんし、研究者や芸術家をはじめとするクリエイティブ・クラスはおそらく誰もがそういったものを持っているでしょう。自分の価値=オリジナリティと専門性を活かして、これまで人類が誰も到達できなかった地点に立つ。それが、僕の生きる意味であり、価値であると思っています。
自分しか気づかない小さな問題を解決するための専門性を身に付けることで、その問題における「最高到達点」を狙うことができる。前述したように、70億人を相手にすれば、どんなにニッチな問題でも大きな価値を生むことができるのです。


暗黙知であったり、クリエイティブ・クラスといった話しは確かに役に立つのだけど、もし「生き残るためにはどうすれば良いのか」という領域を出ない話だったのであれば、 どれだけ高尚であっても結局はライフハックの類でしかなく、本棚の目立つところにあまり置いておきたくない気持ちになってしまう。お金を稼ぐこと、他の人よりも高い名誉を持つこと、生活に余裕があること。聞こえこそ良いが、そういうことを単体で一つ一つみると、どれも大して面白みがないものだ。

しかも、実際にTwitterインフルエンサーと呼ばれるような人たちを見ると、確かに落合さんや堀江さんのような人であるならば、「唯一無二」と言うことはできるかもしれないけど、そうではない大半の人たちは、同じような凡庸なことを、同じトーンで語っている。

厄介なことに、実際に生活できる程度の収入をネットで得ている人たちにとっては、専門性・独自性を追求することよりも、そういうありきたりで凡庸なことに退屈しない能力の方が重要なようにさえ、個人的には感じてしまうことがある。

彼ら(大半のインフルエンサー)が語っている内容というのはどれも正しくて、理屈っぽくて、それゆえに退屈だ。そういうことに辟易している自分としては、やっぱり理屈ではない何かが原動力として欲しいと思ってしまうわけで、そういう意味で書籍の後半の方で述べられている、「人類の最高到達点」に足跡を残すというシンプルで持続的な信念は、なんとなく惹かれるものがあると思った。ただ、目の前の人たちに好かれているだけでは満足できないような、憧れの気持ちと焦燥感がそこにはあるからだ。

大半の人は失笑してしまうような壮大なことを、自分にとって当然のミッション・「生きる意味/価値」として平然と捉えられるなら、人生はどれだけ面白くなるのだろうかと思う。

とはいえ、そういうことをあたかも人類全体の普遍的な価値観のように語ってしまうと、自分の信条を社員に押し付けるような、薄気味の悪い利他性が生まれしてしまう。しかし、この著者は、崇高な目標を持つことは、誰もにとって共通な使命などではないことをわかったうえでそう述べている。だからこそ、それは「信念」であり「執念」であると言っているのだ。

 

・いつまでもマジに考え続けること、好奇心とテンションを高めに設定し続けること、要領よく子供であること。


・自分の見つけた問題を解決するため、徹底的に考え抜くーそこに「厳しさ」や「苦しさ」を感じる人もいるかもしれませんが、僕はそれ自体がものすごく楽しく、幸せなことだと思っています。

・世界に変化を生み出すような執念を持った人に共通する性質を僕は「独善的な利他性」だと思っています。それは独善的=たとえ勘違いだったとしても、自分は正しいと信じていることを疑わず、利他性=それが他人のためになると信じてあらゆる努力を楽しんで行うことができる人だと思います。そのためには、まず猿真似でもいいから始めること、そして自分の視座を執念深く追求し、興味を見つけ極めていくことが重要なので、たくさんの知識を貪欲に吸収してオリジナリティを追求していって欲しい。それはこれから先、いつの時代でも幸福な生き方だと思います。

 

以前も違う記事で書いたのだけど、僕は「静かな情熱をたずさえているひと」をかっこいいと思ってしまう傾向があるようで、落合氏もやはりそんな人の一人のように感じた。

「楽しければよい」「好きなことやればよい」という享楽的なだけの価値観も確かにそれはそれでよい。好きなことを無理のない範囲で頑張って、それで生活することも悪くはないだろう。だけど、それだけだと何か釈然としない感じが残ってしまう。

「伝説を残したい」「ヒーローになりたい」「力を尽くしたい」といったような、少年漫画・少女漫画で学んだような、理屈で説明することが野暮と思われるような漠然とした憧れが、自分に限らず多くの人の心の奥の方に、くすぶらずに残っているように思うのだ。

自分のことだけを考える快楽的な思考が悪いとは思わないけど、そんなことは20数年も生きていればとっくに飽きてくるものだ。だからといって、「お客様の笑顔だけが私の唯一の幸せです」みたいな、自己を押し殺すことを強いるような利他的な価値観にも、スポーツ根性もののようなドストイックな精神論にも馴染むことは難しい。

だけど、なんというかこの人は、これらの中間の位置(中庸)に自然体で立ったうえで、自分自身の目の前の生活と、利他的な貢献心に依存することのない自律的な努力を楽しんでいる感じがして、そういうところに魅力を感じたのだと思う。

僕自身の生活を振り返ってみても、"「好きなこと」「やりたいこと」そのもの"を自分の収入に直結させることは容易なことではないように思う。だけれども、それが好きであり、多くの時間をそこで使っている経験があるからこそ、「こうすればもっと良くなるだろうに」というような、一人の愛好者・ユーザーとしての率直な疑問もでてくるものなのだ。

落合さんはそれこそを自分自身の課題として、また同時に社会全体にとっても利益になるような形で解決すればいいんじゃないの?、と言っているわけだ。

「再魔術化」によって複雑性を持ちながらも、表面的には誰にとっても優しくて使いやすいプロダクトが増えている。スマートフォンを毎日欠かさず使っている僕でも、ポケットベルの仕組みさえ、Wikipediaの記述以上のことは知らない。

必要なことは、それらを当然の権利として、何の疑問も抱かずにただ享受するだけのユーザーにならないこと。スペル(呪文)を掛けられる側としてだけではなく、掛ける側(Wizard/魔法使い)としての立場とスキルを同時に磨いて、社会に還元していくこと。そういう視点が「これからの世界をつくる仲間たち」には必要なのだ。ということで、好きな本のまとめ1冊目でした。

(削除したブログからの移行記事)

日々の小さな出会いと別れを忘れないためにできること

 

 


(削除したブログからの移行記事です)

 

寂しい機会に触れていくなかで思うこと

今日はいま通っている語学学校の友達の1人が帰国する日だった。

同じ日本人ということもあり、また同じクラスでいた時間も短かったので、あまり話すことはなかった。でも好印象の方で、簡単な最後の挨拶はすることができた。

「また機会があれば会いましょう」みたいなことを、お互いの連絡先も知らずに言う。そういう社交辞令みたいなものがわりと僕は好きで、今日もそういう感じだった。

なんでもかんでもSNSを通して繋がればよいというものでもない。むしろ、連絡することが簡単になったことで、別れの挨拶をすることもなく誰かと疎遠になるということは、多くの人が経験しているのではないか、と思う。

わりと友達が少なく、知り合いを大切にすることをできてこなかった自分でも、出会いは寂しく感じる。だから、他人想いで親友がたくさんいるような人たちというのは、もっと多くの寂しい思いをしているのではないか、と思うと、少し胸のあたりが痛くなる気がする。

それとも知り合いが少ないからこそ、いちいち気になってしまうのだろうか。そもそも大切にしようという意識もなしに、悲しむことは何か違うようにも感じる。

しかしここで矛盾というか違和感のようなものを感じることがある。昔に比べて挑戦することやできることは増えてきているのはわかるが、そうやって“いい人”に近づいていくと、同時に悲しいことが増えていくのだ。

「一切後悔をするな」などと説く人たちもいるが、僕はまだこの言葉を鵜呑みにしていない。後悔をすることも、反省をすることも、あらゆる学習と同じで特別視しないでできるようにしないと、と感じているからだ。

それにしても、少し話しただけでも魅力がわかるような人との出会いというのは衝撃的なものだ。今日のその友人が、自分にとって特別に印象的な人であったということではない。そうではなくて、そういう魅力的な人が、本当にたくさんいるということが衝撃なのだ。

他人のことが見えるようになると、なおさらそう感じることが増えていくように感じる。

特に最近僕がそういうふうに感じる人には共通の印象のようなものがあって、それは“静かな情熱”をたずさえているということだ。何かしらの信念のようなものがあり、それを言葉にするまでもなく自然と行動に現れている。そこには無駄がなく、周囲のひとを緊張させるような威圧感のようなものもない。

このような魅力のある人との出会いは、やっぱり少し寂しくなる。このことから、これからも自分の人生がもし向上していくのだとしたら、それだけ寂しさを感じることが増えるかもしれない。だから、やはりこのような矛盾についてはなるべく考えて、解消しておきたい。

そうして今日学んだことは、後悔、反省、別れといったあらゆる苦慮のもとになりえるものも、そして前向きにとらえがちな学習、成長といったようなものも、結局は同じ「気づき」であり、「気づき」である以上は本来的には嬉しいものなのだ、ということだ。

「気づき」というものは、好きや嫌いといった情感的なものも、もしくは良い悪いといった評価に関するものも、好ましいものを近づけ、好ましくないものを遠ざけることを補助するものだ。

いろいろな人に出会って、何が好きで何が好きじゃないかを知ることで、「自分らしさ」がわかり、その自分らしさに適した時間を作ることができる。

気づいているのに何も変えないというのは怠慢であって、また気づくこととそれに基づいて動くことの差が少なくなればなるほど、より「いい時間」に近づくはずだ。好ましいものに近づく体験は嬉しいものであり、そのきっかけになるものも当然うれしいものであるはずだ。

そうなのであれば、大きな後悔でも小さな反省であってもそこに「気づき」がある限りは、「うれしい」という感情に近づけることができる。どのような経験にも結局のところ固有の価値がない以上は、少しでも好循環に近づけるようにしたい。

どれだけ魅力的な人に会おうと、ただ羨んだり、雲の上のひとを見ているように他人ごとになってしまうと、何にも気づくことができない。せっかくの出会いも、何の変化も自分にもたらさないのであれば、出会いに価値を感じることは難しくなる。

ようするに、人は自分が変わることによって他者を受け入れているのだ。何かに気づき、自分もそういうふうでいたい、という想いを持ち始める。そして、それを形にしていくことによって、その他人と自分との境界線を解消していくのだ。

当然だけれど、その好きな人たちと共に生きることは、放っておいて勝手にできるようなものでもない。人は自分の夢でさえ、日々の刺激のなかで簡単に忘れることができてしまうのだ。

だからむなしさも寂しさも、きっと出会いと別れのなかで、相応しい感情ではないのだ。自分が素敵な人と出会い、時間を共にしたということは、自分自身の変化を通して、形に残すことができるのだ。

そういうことを考えていると、別れた直後のむなしさがスーッと消えていくような感じがした。

距離のないひと

ひとの魅力や情報の取り扱い方について考えている。

そのなかで、一つのキーワードだと思っているのが、”距離のないひと”の存在だ。

 

時間割引率(先々に手に入る報酬を、今すぐ手に入る報酬よりも低く評価する心理的な作用)などの行動経済学の用語などが表すように、私たちの生活は自分の周囲と前後数年程度の見通しのうえで成り立っていることが多い。

だから、1年後の10万1000円よりもいまの10万円の報酬を選ぶことをお得だとかんじるし、隣で苦しそうにうずくまっている人に手を伸べることはあっても、海をまたいだ国で餓死で毎日人が死んでいる事実には鈍感でいられるのだ。

当たり前の話しであって、これは心理的に安定して生きていくために合理的に作られた非合理性のようなものだ。このような”区別””差別”を自然にできることから、大して頭を使うこともなくスムーズな取捨選択ができるようになる。もしこれをAIに同じようにやらせようと思うと、検索するデータの範囲を”人間の自然の感覚”に近い範囲に区切る必要があるから大変だ。そのように特別に定義するまでもなく直感でできるというのは一種の特殊能力ということもできる。

だけど、この能力はある意味では個人の能力を制限することがある。明らかに将来役立つ行動に対して、いまここにある自由を制限する窮屈なものだと感じてしまい、本来価値のある努力を高尚なものだとして遠ざけてしまったりもする。

ここでいう”距離のないひと”、というのはそういう人間特有のバイアスから自由でいる人たちのことだ。10年後の理想の未来像をすぐ目の前にある未来のように強い臨場感をもっていつまでも感じられたり、日々のありふれた誹謗中傷のかわりに、会ったこともないひとの本質的な痛みに共感することもできる。

ソフトバンク孫正義社長のように、小説の架空の人物像(坂本竜馬)に強い憧れと尊敬の念を抱き、実際に未来を変えてしまう。イーロンマスクやスティーブジョブスのように、ファンタジーとしか思えないようなあるべき未来を本当にかなえてしまうのは、おとぎ話と現実を違和感なく併行させる”マジックリアリズム”という小説の技法(WIKI日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法)を僕には想起させる。

現実(目の前の周囲数メートル)にしかリアルを感じられなければ、このような生き方はできないが、あるべき現実というのも、また現実の一部なんだと思う。だから失笑する代わりに、「どうやったらそこに行けるのだろう?」と冷静に問うことができる、そういう人たちがいるのだ。