退屈するよりも退屈しない方が問題になりえる。(視点をもつことについて)

 

引きこもりニートはたくさんいるが、彼らは案外退屈していない、という話を聞いたことがある。

パソコンやスマホを開けばニュース(新しくて重要そうな雰囲気をもっているキラキラしたコンテンツ)がいくらでも見れるし、将来の不安についてもいくらでも、あらゆる方向に考えることができるだろう。

家にネット環境があることによって、ニートニートであり続けることができる。これがもし外部の情報と接するツールが全くなくなったら、もっと多くの人が耐えきれずに、それよりはまともと言えるような生活を始めるはずだ。

「退屈しない」というのは物事を続けるうえの一つのコツではあるけれど、諸刃の剣のような性格がある。

気に入ろうと気に入らないと温存しているものには、何かしら退屈しない余地がある。「退屈している」と言いながら何もしていないのならば、やはり退屈しない余地がどこかにあるからだ。

面白いのは退屈したときに、ころころとやることを変える人と、やり方を変える人にわかれることだ。おそらくこの違いは、やることに対する価値観、退屈であることと価値観との関連性についてのとらえ方の違いなのでは、と思う。

つまり、退屈なのはやっていることがつまらないから、という外に原因を求める傾向があるのか、もしくは、退屈なのはやり方が良くないから、という、内に原因を求める傾向があるかということだろう。

そのどちらが良いとかそういう話ではないし、退屈というのはよくよく考えれば単なる視点(どこを見ているか)の問題でしかない。局所的であるか全体的であるかという話しでもあるし、抽象度の違いの話しでもある。

良し悪しはそのコンテクストによって決まる部分が大きいので簡単な判断はできないけれども、少なくても”自分がいまどこを見ているのか”という部分に関するざっくりとした客観的なメタ視点は必要なように思う。

 

mistnotes.hatenablog.com

この一つ前の記事で自信について書いていたけれど、書き終わったあとにふと、過剰な自信も、自信のなさも、ともに周りが見えていない証拠だという、どこかで触れた言葉について思い出していた。

その言葉の是非についてはいまは問わないけれど、自分が見ているもの、見ようとしているもの、注目しているもの、あらゆるものごとにはあらゆる”視点”が関係していて、その視点には、無意識なものも含めてさまざな理由のうえで成り立っている。

いま自分は、天井を眺めるかわりにディスプレイを眺めている。

その理由は明白なように思うけど、同じようにすべてのものが意識的で、頭で理解しやすい確固たる理由があるようにとらえるのは間違いだろう。

僕がベッドのうえにいる時間が長いこと、ときどき憂うつに感じていること、その他のあらゆることに関するものの見方に対して、当然だと感じている前提の意識に関しては多くの疑問の余地があるように思う。

ここで、疑問があるのならば解消しなければいけないと思うのであれば、それもまた一つの視点にしか過ぎない。疑問があろうと何だろうと機能的であれば別に何でも良いという視点も確かにあるのだから。

 

退屈というのはよくよく考えれば単なる視点(どこを見ているか)の問題でしかない。局所的であるか全体的であるかという話しでもあるし、抽象度の違いの話しでもある。

 

視点の要素について考えると、先ほどはこの2つをあげていたが、時間軸もそうだし、距離感もそうだし、ポジションの違いもあるし、多くの要素があげられる。実態のあるものだけに関して言うのであれば、VAK『視覚(Visual)、聴覚(Auditory)、触覚(Kinesthetic)』なんていうのも考えやすい要素の区分ではある。

しかし、そのような多くの要素を大体は一瞬において無意識に判別して、関心と価値観の特定の区域を作り上げている。

視点をつくりあげる要素にはだいたいにおいて、いくらかのつまらない理由、つまりエゴ(過去的、局所的)であってエコ(未来的、全体的)ではない何かがまぎれこんでいる。それが意味のあるものであるのならばともかくとして、無意味なものであるかもしれないね。

この話しは、フラットな全体図を持とうという話しではないと思う。バイアスを外そうという話しでもなくて、むしろどのようなバイアスを持つか意識的に選択ができれば良いよね、という話しであるんじゃないかな。だって、その方が面白そうだから。