時間が教えてくれるもの

いまの僕が感じるものや、所有しているもの、頭のなかで思い描いているもの、そういうものの多くは、今ならばまだ許されるかもしれないが、50歳や60歳になるころには到底受け入れられないだろうと思う。許される、というのは、自分自身がその関心を持つことを許すことができる限界のことであり、外部における社会上の制約のことではない。

たとえば結婚したいとか子供を持ちたいというような願望もそうだし、自殺したいとか気分が優れない、とかそういう不調を思わせる、不快感をあらわにするような感情的な表現もそうだ。いまのまわりの社会は、大学の入学にも結婚にも年齢制限がないように、社会的な標準との折り合いはあるものの、自分自身が抵抗さえなければ、認められるものはかなり多い。

そのことに関して、ぼくはまわりの目なんか気にしないで好きなときに好きなことをやるのだ、と言うこと自体は優しいが、精神的な制約を完全に無視することはできないと思う。誰かに感謝をしたいと思っても、その感謝をする気持ちもいつかは無くなり、その感謝をする対象もいつかはいなくなる。機会の損失ばかりに目を向けたいわけではないが、ぼくが年をとり、50歳や100歳になったとしても、ふさわしいと思えることはどれくらいあるのだろうと思うと、あまり見えてくるものがないのだ。

その反対に、自分自身がまだ若いとか未熟だとか初心者だから、だとかそういう、例えて言うのであれば、”下から目線”と言えるような、傲慢さも少なくないだろう。ぼくは当たり前のように、飽きることもなく、死にたい、つらい、気分が優れない、自殺したいと頭のなかで繰り返してきていたが、その思いのなかには、いまならまだそういうことを自分自身に感じることを許すことができる、というような甘えがあり、時間がたつにつれて、ぼくはもはやそれを自分に”許せなくなる”というただその一点によって、案外手放すことになるのではないか、とも思うのだ。

まわりのひとが就職をしているから、とか結婚をしているから、とかそういう焦りや制約に真っ向から対抗してやりたいという気持ちは僕にはさらさらなく、自分にとってためになるのであればむしろ利用できればいいな、と思っている。無意識の焦りや恐怖がどこかにないと、締め切りがないと、時間の経過による景色の変遷がないと、ぼくはいつまでも死ねないまま、いまと同じ場所に留まり続けることを許してしまえるのだ。

そのように許せることによって不逞を働き、許せないことによって、特定の良い方向が見えてくることがある。このように見ていくと、ある意味では、自由というのは制約そのものなのだ。そうして、不自由ということは、何でも流されるままに、見たものや感じたものに抵抗の方法もわからずに反応しつづけることでもある。

たまたまそれが良い反応であったり、悪い反応であったりする。子供というのは、そのように、自由であることによって危険なのだ。自由だから誰かに守られる必要があり、人生を台無しにしない方向を指し示す必要がある。

そのため、この文脈におけるような自由を、良い大人がもっているのは悲惨なのだ。もしも、自分の子供が危険な目に遭っているときに、助けるか助けないかで迷えてしまうのであれば、何かが間違っていると思うだろう。同様に、20代や30代をすぎても、いつまでも生きるか死ぬかという2つ以上の選択肢を持っていること、50歳をすぎて、さて自分の人生では何をやるべきなのかな?と考える余地があること、それらのことも同様に、何かしらの良くない傾向を示唆している。

このように、自由という言葉が指し示すポジティブな兆候な、ある段階を超えて、拡散から収斂へと転化する。

義務教育のように誰かが崇高な理念や意志のもとで用意してくれる強力な制約はいつかはなくなるのであるから、それに代わる制約(value)を自分自身で保持する必要がある。そうでなければ、目の前の広告やプロダクト、芸能人の不倫のニュース、スマホの光、SNSの意味のないやりとり、とりとめのない感情などが、自分自身の生活の強力な制約となり、そのひとを自由へと突き放すことになる。

それでは、あらためて、年をとる、というのはどういう経験なんだろうか。つまりは、制約が増え続けていくことであり、その認識によってやるべきことや感じるものに疑いがなくなることなんだと思う。

ぼくは、もし生きつづけるのであれば、自分の人生のピークは60歳くらいになると良いなと思っている。もしくは、今の状況であれば、それは80歳でも良いのかもしれない。それなのに、20や30代で一番輝いて、あとは衰える一方なんていう価値観は許せないのである。

だから考える。もしいまぼくが100歳になるのであれば、今の状況をどう見るのだろう。金銭的不安、死別、体力の衰えなど、ありとあらゆる制約にまみれる経験を経たなかで、それでも美しく見えるものは何だろう。また、そのなかで、いまここにしかない、貴重な制約はなんだろうか。そして、それを見ようともしないで、生きることと、死ぬことの境目でただ揺れ続けている経験は、何を前提にしているのだろうか?

そうやって、時間が教えてくれるものや教えてくれていたものを、いま一度あらためて見れたらなと今はそう感じるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

メモ1 そのほかの要素、とくに意志について

このように、まわりにあるものや、それを成り立たせているものを見ることそのものが勇気、努力、困難などありとあらゆる”用意”(意志)を不要にしていく。ものごとは自明なのであり、語るのは自分ではなくて事物(世界)なのだ。先ほど、自分の子供が危険な目にあっているときに助けることを迷うだろうか、と書いたけど、ものごとを本質的に見通せているときに、そこにあるのは、意志ではなく静かな衝動なのである。目的ではなく理由なのだ。この場合であれば、子供は大切であり、自分の子供を好きであるという単純な理由(reason→理性)がある。(いろいろと過程を省略)

 

メモ2 制約を制約することによる許容性の拡大について

誰かと一緒に過ごすとき、興味のないひとであれば、面白い話でもしなければ場がもたないかもしれないけど、好きなひとであれば、どのような話でも許容できるし、いくらでも時間を使って話したいとさえ思うだろう。反対にいえば、それが好きなひとでなかったのであれば、その先の話はごく一部のタメになるものしか受け入れられないし、時間が過ぎていくことがもったいないと感じるなど、多くの別の視点がでてくることになる。

このように、初めに選ぶこと、つまり自分の希望以外の選択肢を許さないという取捨選択がなければ、その先にあるあらゆるものがごく一部の例外を除いて、許せなくなる。何かを許さない、というこの話における制約は、物理的な制約をもって精神的な制約を解放する意味合いを含む。どちらが重要だろうか? この制約の制約というのは哲学のひとつの役割のように感じる。

メモ3

 

 

 

最終的に落ち着く場所がいつもの見慣れた場所であったとしても僕はそれでかまわないとおもう。

それは本質でも、その物語の魅力を語る部分でもない。自由は制約でありえるのであれば、時間なんていうのはまさにその制約の代表たるものであり、つまり人生が有限であることが自由を象徴するような美学もありそう、という話なのカモしれない。ここで改めて考えようとしていたことは、自由って良いよねというありふれた話の一つであり、その自由が指し示す場所は別にどこでも良いということを一緒に感じている。

 

メモ4  信じることは見えることより弱いということ

 それでは、あらためて、年をとる、というのはどういう経験なんだろうか。つまりは、制約が増え続けていくことであり、その認識によってやるべきことや感じるものに疑いがなくなることなんだと思う。

見えることにただそのものによってやることがわかる、という流れのなかには、本来は信じる、という過程が不要なのである。だから信念ではなく認識という言葉を使う。

想像上のものであったとしても高い臨場感で見えるものに、それを信じるという余計な行為は存在しない。目の前のテーブルにスマホが置いてあることを、そこにスマホがあると私は信じている、とは言わない。その代わりにスマートホンが置いてある、と言うはずだ。

 信じるという言葉は、何か崇高なもののように語られることが多いと思うが、意志という表層的なものの延長にあるものであり、”存在しないかもしれない”という曖昧さを前提としている。

このことから信じることは見えることに比べて幾分不明確さがあることがわかる。また、逆に言えば見えているものでさえ、そう信じているに過ぎず、スマホを手に取ったときに重みを感じること、硬さを感じること、そいういうものの積み重ねによって、スマホをいま持っていると信じているのだ。

そのうえで、信じることと見えることを明確に区分する必要があるのかはともかくとして、見える、という言葉を使うときには、信じるという言葉を使うときよりも、より強い承認をもって事に当たっている、と言えるだろう。夢や目標は、信じるものなのかそこに見えるものなのか。正しく捉えることが重要なのであればそれは信じるもの言った方が良いように思うけど、この文脈のもとに、正しく捉えるということが意味をするものは、必然性と自由との境目における自分自身の許容の範囲と言うことができるように思う。