自信がないということについて

子供の頃から「もっと自信を持った方が良い」と言われ続けているような気がする。

ただ、「自信を持つ」という言葉の意味がよくわからない。自分を信じよう、って何なんだろう。ここでいう、自分とは何なのか、信じるとは何なのか、さっぱりわからかったりする。

自己肯定感を高めるということなら、それらしいやり方は思いつく。でもそれは、自信とはまた少し違うような気がする。また、何十回も反復している動作なら、自信をもって出来るとはいえるけど、それにしても単なる慣れの問題であって、自信とは違うのかなと思う。

何十回も修羅場を乗り越えてきた人ならば、新しい局面においても自分なら出来るはずだ、という自信があるだろう。この自信は何となくわかりやすくはある。こちらにしても新しいパターンが徐々に形成されていったという認知の問題ではあるだろうが。

そう考えていくと、自分の気にしているのは、子供の頃から自信満々で何でもやっているような”根拠のない自信”の方なのだと思う。こういう自信は、「何だろうと俺ならできるだろう」というような推測なのか、それとも「何が起こったってべつに死ぬわけではない」「知ったことない」みたいな楽観なのか、知性や環境がものをいうものなのか。

軽く検索してみると、周りの意見に振り回されることなく、「自分はできる」「大丈夫」と思えることが自信であるという意見が見つかる。これはどうなんだろう?

自分自身の失敗を振り返ってみるならば、むしろまわりの意見をきくことよりも、自分の感覚を優先してきたことが良くないことのように思う。もっと正確にいうならば、まわりの意見は率先して聞くが、最終的にはどれか一つにゆだねることができなかった、といった方がいいのかもしれないけど。(こう見てみると、集中力との関連性も感じられる。)

そのことだけを見ると、むしろ自分を信じていないということよりも他人を信じていない、ということが大きな要因のようにも見える。いや、それよりも、この人のいうことを聞いてみようという自分の感覚にコミットできなかったこと、と言えば、やっぱり自信の問題になるのかな。

 ”信じる”という感覚は不確定な要素が大きいのでロジックに頼り切ることはできない。最終的には”何なのかよくわからないもの”にぐっとのっかってみる必要がある。そのときに必要なのは、ありきたりな話しではあるけれど、結局勇気を持つことなんだろう。

 この勇気をもつ、ということと自信がある、ということには関係があるような気はする。そして、要は勇気を出すことに慣れていない、という問題が浮かんでくる。

「もっと自信をもった方が良い」では何をすればいいかわからないけど、「もっと勇気を出すことに慣れた方が良い」ならば、まだ腑に落ちる感覚はあるし、それが自信とよばれるものに繋がっていくような気もする。

無知ゆえに大胆である、ということで勇気があるように見えるということもあるし、それはそれで魅力があるんだけど、まぁきちんと選択肢を見据えたうえで、それが判断を下すことに支障がなれれば良いよね、ということなのかな。

でも、ここまで書いておいてあれだけど、べつに勇気なんて必要ないのではとも思うな。無邪気な好奇心であったり結果に対する無関心であったり、要するに勇気のかわりになるものはいくらでもあるし、結果が同じなのであれば、別に何でもよくない?という気もするのだ。わりとここらへんの適当さも変わっていないような。

ただそうであったとしても、「もっと勇気を出すことに慣れた方が良い」という言葉には一定の信頼はおけそうな気がする。というのも日常的に、ちらちらと必要性は感じているからね。