他人を避ける

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(削除したブログからの移行記事です)

 

昨日から今日の朝にかけて憂うつな気分だった。

原因は、思いやりのない人と接する機会が複数あったことだ。そういうことは今に限ったことではないし、気にしないようにしようとすれば、そうすることもできる。ただ、ずいぶんと子供のころから、こういう人たちのせいで自分の人生は翻弄されてきたんだという風にネガティブな感情とともに、面白くなかった経験がつぎからつぎへと思い浮かんで気分が沈み切ってしまった。

何か嫌なことが起きているとき、その当人に原因があることもあるがまったく原因がないことだって少なくない。理由もなく攻撃的なひと、人が嫌がることを好むひと、そういう人たちだってたくさんいる。

だから、それはそういうものなのだ、と思い込むこともできる。苛々してしまうとすれば、彼らが自分と同じ能力や倫理を持っているのにも関わらずそれに外れたことをしていると考えている。

でも、そうしないこともできる。「彼らは病んでいて、自分たちとは全く違う生き物なんだ。だから腹を立てたりしないで、優しくしてあげないといけない」と。そう考えることで、随分と腹が立つことは少なくなる。ただそうやって色々なものを遠ざけ続けることによって、自分がどこにいて、誰と生活を共にしているのかがわからなくなる。

何にもまして憂うつな気分になるのは、そのほとんどの場合に、間違っているのは自分だという風にとらえて、その場所に自分がいることに居心地の悪さを感じるからだ。誰かが僕のことを突然殴ったとしても、そんな場所にいて、そんな世界でぼんやりといきている自分が悪いのだ、とどこまでも自己評価が低くなる。とはいえ、この「自分が間違っている」という言葉にはなんの根拠もない。実際に、最近では他人の意見をほとんど聞かず、助言を貰っても違和感を感じるときは、自分の直感をもとに行動している。そして、そういうときは、わりと上手くいくいことが多い。

今までの経験のなかで、自分から見て上手くいっていると思うことの大半は、自分の価値観に従った時であるように思う。もちろん、それは思い込みかもしれないが、とにかくもただ何となく正しそうな助言に従ったことで、随分とつまらない目に会ったのは確かである。

でも、だからといって、やはり自分のやり方が正しいんだ、と主張したいわけではない。どちらが正しいかなんていうのは実際どうでもよかったりする。しかし、そういうふうにコンフリクトを感じることが、ただただ多くて、その多さに嫌気がさすのだ。いつまでも、勝ち続けたり、あるいは負け続けたり、そうやって対立しているものを天秤にかけ、勝負をし続けること自体が面白くない。

この、なにが正しくて、なにが間違っているのか、という考え方は厄介だ。世の中の多くのことは正しいことと、正しくないことがごちゃ混ぜになっていて、その是非は、その場所の雰囲気のようなもので決まる。ここでいう間違っているというのは、その場のコンテクストに相応しくないということであり、ある文脈のうえでは正しいものでも、ほかの場所では見当違いのものとなる。この際に、少数であるほうが多数に文句を言うのは間違っている。どれだけ、それが正しそうに見えたとしてもだ。

そういう風に考えると、ある種の自分探しというのは、自分の固有の性質が相応しいとみなされる持続的なコンテクスト(環境)を探すことだ。そうでなければ、環境が変わるたびに自信を失い続けなければいけなくなる。

しかし、だからといって、見つかる当てもなくいつまでもぐるぐる探し回る必要はあるのだろうか。その環境を、その世界観を、自分で用意/表現 してしまえばもっと手っ取り早いのではないのか。

僕がここで書いたことというのは、自分のコミュニケーションの下手さにもとづく回避策のようなものだ。どちらかといえば、僕は人のことが好きである。いろいろな人と楽しく関われたらと思う。だけど、大半のひとは自分のことが好きではない。そしてその原因は自分にあり、誰かが悪いわけではない。そして冒頭に書いたように、そのようないつもの憂うつさをきっかけに、過去のいろいろな嫌なことが連鎖的に頭のなかに渦巻いて嫌気がさしながらも考えていて、そのさいにふと思った。

人と上手くやっていきたいとか、もしくは煩わされるくらいなら一切人間関係を放棄して気にしないようにしたいとか、そういうことばかり考えてているが、そもそも周囲との調和を図ったり、あるいは対立することがコミュニケーションのすべてなのか、といえば、決してそうではないだろう。

なぜ、いま僕はわざわざこんなことを書いているのか。もしくは、なぜ誰かが熱心に音楽を作ったり、絵を描いたり、仕事に打ち込んでいるのだろう。僕がコミュニケーションという言葉を使うとき、そのほとんどが言語・非言語を問わず、身近な誰かと何かを明示的にやり取りして、そのフィードバック(評価)を受けることをさしている。そのフィードバックは時には心地よいもので、ときにはそうではない。

しかし、ある種のひとは、そういうやり取りの外にいて泰然としている気がする。反応の渦のなかにいて一喜一憂していることは少ない。でも、だからといってコミュニケーションを放棄しているようにも見えない。

例えば、アーティストのような人たちがそれに近い。1日の大半の時間を人と離れた空間にいて、他人の書いた創作物に触れる時間も少ない。それよりも自分の内からでるもの、そしてそれを表現する技術を高めることに多くの関心を払っている。

ではその”内にあるもの”とはいったい何なのか。無からものが生まれない以上、それは今までその人が外から受け取ったものの主観的な総和であり、表現というものは、自分自身の経験の2次創作として、自分なりに解釈した世界観の再構成に他ならないと思う。

経営学では「イノベーションとは新結合である」という言葉もあるが、自分の内にあるものが他人と全く同じになることはない。だから、それをそのまま表すことが創作となる。だったら他人と接点を持つことのかわりに、この創作にもっと関わることはできないのか。それは他者からの評価を受け取るためではなくて、情報のやり取りに意義を感じているからでもなくて、そうすることによって、誰かに失望され、自分に失望し続ける不快感から抜けたままでも、世界と関わっているという実感を持てる気がするからだ。

そしてこの世界と関わるという、もしくはその世界のなかで居場所をもつということが、コミュニケーションの本質であって、目の前の感情のやり取りはコミュニケーションの一部ではあっても、決して全体にはなりえない。ようするに、ただ1人で残りの人生を生きることになったとしても、コミュニケーションは可能なのだ。同じようにどこかで試行錯誤を重ねているひとたちと心を通じ合わせたり、創作をしてみたりと、そういうこともできるだろう。

*

と、ここまで書いてきて、ふとそのわがまま具合に笑ってしまいそうになる。それはただ、批判もなにもされたくないという都合のよい世界の妄想だ。ただ好きなようにして、ただ好きなように批判されればよい。ほんとうはその一点なのかもしれない。

 努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野の間にぽつりぽつりと光っているあの灯火たちと心を通じあうことだ。 サン・テグジュペリ『人間の土地』