「私を滅する」ことと個性的であること

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YouTubeFF9のプレイ動画を見ていました。懐かしい。

FF9ではアデルバード・スタイナーという王国王女を守る兵隊長のキャラがいる。

人の為に生きることは真に自分の為なのか教えて欲しい 何のために人は生きるのか...」という迷律も持つ彼でもあるが、この「私を滅する」ということについて少しだけ考える。

自己啓発書にしても、宗教的体験にしても、もしくは少年ジャンプにおいても、「私を滅する」というのは、一つの理想的体験ととらえられている。組織への貢献、志への貢献、もしくは仲間のためを思った犠牲的献身。「鬼滅の刃」や「進撃の巨人」のような作品はまさにそうで、多くの犠牲を払いながら全体の共益を測ることが、物語のテーマでこそないが、ひとつの流れとなっている。

「私を滅する」というとき、僕には2つの方法が思い浮かぶ。一つは、禅や仏教のように、無に帰属しようと試みること、そしてもう一つは、前述のように全体性に貢献しようとすることだ。

しかし、そのどちらにしても、「私を滅する」ことには個性を押し殺すような反面があることを想像する。自分のやりたいことを我慢して長時間働いたり、自分の欲求を抑えた分だけ他者のために使う時間が増えたり、と、そういう風に、個性というものをないがしろにした考えのように感じていた。

だけども、いまは少し違うように感じている。そもそも、個性と忘我はそのように対立しないのではないか、と。

つまり、どのように「私を滅する」かという方法が問われていて、その解決策が個性を発揮することではないかと思うのだ。

自分が納得できないこと、やっていてつらくしかないこと、そういうことを嫌々やっているとき、どうしても、自分というものが、そして思想というものがでてくる。

「なんでこんな目に会わなければ」とか「なんでこんな嫌な人たちがいるのだろう」と考える。純粋な怒りのかわりに、くすぶるような不満がでてくる。

だけども、自分がこれだと思ったもの、向いているもの、好きで仕方がないこと、価値があると思うもの、そういうものに向かいあっているときは、心理学的にいえば「フロー」という体験に入り、文字通り、自我だけではなく時間の概念すら不要となる変性意識状態となる。

直感に反する考え方になるが、個性は、私を滅することを妨げない。むしろ、個性を知ることが私を滅することを助けるのだ。