続ける理由を考える

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最近、新規で作ったアカウントで、"何か一つことに夢中になることはそれ自体ストレス解消の効果があるかも"みたいなツイートをしたのですが、そのことに関して、のメモを書いていきます。

 

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ほとんど毎日暇なときには、違うことを考えているので、メモでも残しておかないと一瞬で忘れてしまう。だからといって毎日メモを残しておいたところで、それが何かになるかといえば何にもならないところが困ってしまう。

原因療法、対症療法という言葉があるようだけど、その日に思ったことをその日の感覚に基づいてまとめてみたところで、根本的な解決にはならないと思う。でも、解決にならずとも、続けていることは思っている以上に多くある。そして、本人が望んでいることもあるけれど、望んでいないことも多い。

いったいなぜそれを続けるのだろう、という根本的なことを考えると、そのこと自体が治療になっているからだ。退屈である苦痛から逃れるためにYouTubeの動画を眺めてみたり、同じ悩みをもっている人のコミュニティーで事例を共有しあったり、自分の倫理観やアイデンティティと一致していることを行うことによって落ちついた気分になったり。僕自身がたとえば、Twitterやこのブログを好き勝手に更新しているのは、同じように、自分の頭のなかにあるもやもやをそのままにしておくことが苦痛だからなのだと思う。

そのように、僕が日々とくに意識をせずに続けられていることの多くにはある種の鎮静作用がある。習慣になった作業は、続けないと落ち着かなくなり、あまりに美しい体験をするとそれがない景色がいつもより淡く見えたりする。

しかし、このことを肯定しようとすると、ほんの少しの後ろめたさを感じてしまう気がする。その営みが自分の生活の大半をもし占めるのだとすれば、ただ痛みから逃れ、ただもどかしさから離れるための生活に何の価値があるのだろうと考えてしまう。

とはいえ、と考える。即座に同意してくれる人は少ないかもしれないけれど、多くのことはこのように、”ある状態”から”ない状態”へ変遷していくことを美しさや尊さと定義しているように思うのだ。知覚として生じてから淀みなく解消される過程、と言った方が良いかもしれない。

例えば、ぼくは快楽の本質は”失うこと”にあると思う。具体的な例をあげると、多くの人は何かが欲しいと強烈に思っているときは、そのものを手に入れた瞬間に一番快楽を感じる。もし高級なカメラを買うのであれば、それを使用している自分を想像して買うものだとは思うけど、実際に一番嬉しいときは、買った瞬間という多いはずだ。

そのカメラを持つということがその人のステータスであった場合には、買った瞬間に”たまっていた思い”が解消される。その結果、買ったけどそのあとは放置しているということも起こりえる。反対に”カメラマン”というステータスを持つためにカメラを購入した場合は、その後も続ける可能性が高い。なぜなら、その欲求はまだ解消されていないからだ。

それが欲求と呼ばれようが、痛みと呼ばれようが、もしくは正義感と呼ばれようが、本質的には大して変わらずに、多くのひとがそれをまず知覚して、そしてそれを失う(解消する)。そしてそれがポジティブな場面では、その失うことを”達成する”とか”手に入れる”と呼んでいる。このことに限っていえば、それほどわかりにくい話しでもないように思う。

 その営みが自分の生活の大半をもし占めるのだとすれば、ただ痛みから逃れ、ただもどかしさから離れるための生活に何の価値があるのだろうと考えてしまう。

 このように”失う”ということは、生活のなかで当たり前のように受け入れられていることであるけれど、日常的にその言葉が使われている背景から考えて、多少の抵抗を感じるものだと思う。

このことに関しては、僕のなかではある程度の憶測は既に立っていて、それは、”ひとはいったい何をして生きれば良いのか?”という問いにもつながるのではあるけれど、そもそもの人の幸福の根源は、ようするに、”自分のなかで見出せるエネルギーを消費し続ける”ことにあるのではないか、といまは考えている。ありていに言えば、全力を出し切ることだ。

 このエネルギーを消費する、ということが失うことのプロセスであり、私たちはより多くのエネルギーをより効率よく失う手段を探しているように思う。そしていまここで触れたように、”このようにエネルギーを消費することそのもの”に、多くのひとは肯定的な感情を付随することを当然のようにしてきているのだ。

 

mistnotes.hatenablog.com

ここから少しだけ、この記事を補足するような形で、文章を続けようと思う。この記事のなかで僕は、”私を滅する”ことと”個性的であろうとすること”は、お互いに補完する関係にあるというような考察をした。簡単にいえば、自分に向いている好きなことに夢中になっていれれば、その技術を使って誰かを助けられるかもしれないし、余計なことも考えなくてて良くなるよね、という一般的な話だと思う。

そして、いまこの記事で書いたことを踏まえて、これを言い換えると、エネルギーを消費する一番効率的な方法が、そのように好きなことに夢中になることなのだ。そしてそれを通して、わたしたちは私たちにとって一番大きな課題ともいえる”自分自身を失う(消費する)”ことができ、人によってはより大きな組織やより普遍的な問題に関わり、”社会的な課題を失う(消費する→解決する)”ことができる。

”エネルギーを消費する”という考え自体は、以前読んだことのあるジョルジュ・バタイユの後期の作品(『呪われた部分』)にある考え方から発想を得ている。彼は、私たちの営んでいる社会というものは過剰なエネルギーを消費するためのシステムである、というようなことを述べているのだ。

 

そもそもの人の幸福の根源は、ようするに、”自分のなかで見出せるエネルギーを消費し続ける”ことにあるのではないか、といまは考えている。ありていに言えば、全力を出し切ることだ。

 

 最後に少しだけ補足すると、エネルギーというのはそのように内外から知覚することによって見出すものであって、最初から容量が決まっているものでも、出し切れるものでもない。だから、ここでいう”消費し続ける”というのは、効率よく循環を続けるということである。へとへとになっても、回復する機能があるので、次の日には元気に起き上がれたりする。

何か問題が生じたとき、意図的に知覚を止めてしまうことがある。また、知覚そのものに問題が生じることもある。仕事から帰ってこれ以上動けないと思っても、知り合いからパーティーの誘いの電話でも来れば、疲れを”忘れて”、動きまわったりすることもできる。ここではこれ以上触れないけれど、この”忘れる”ということもひとつの喪失なのかもしれない。

 

こんなことを書いていても、僕はいまでも、日によっては朝から辛い気分をひきずりながらベッドでひたすら寝ていたりしている。ちょっとした息抜きのために書いているだけだ。だけど、まとまった量の文章を書いているとき、自然と集中しているし、気分が晴れてくるような気はしている。

後ろめたさがあるとき、意義を見出せないとき、何かしらの抵抗があるとき、それを平然と続けることはできずに、漠然と続けているのではないか、と思う。何かを意志すること、自分自身によって選択すること、夢中になって続けられること、これをやると決められるもの、そうやって何かを平然と続けられるようになったとき、僕の憂うつさも少しはましになるのかもしれないし、ならないのかもしれない。

悲しいときに悲しい曲をきくこと、元気な気分で元気な友達と笑いあうこと、そのように親和性の高い(気が散る要素が少なく、より自然に集中できる)行動をとるとき、私たちは心のなかのわだかまり、この文脈でいえば昇華されていないエネルギーのようなものを、そのように効率的に(問題に集中することそのものによって)解消しているのではないかと思う。しかし、何かをやらされたり、惰性のみで続けている限りはそうではない。

もう、言葉遣いはどうでも良いのだけど、自分を苦しめ続けているなにかには、”もう取り返しのつかない”という無意識の感覚があるのではないか、と思う。それは過去の思い出や傷であったりすることから、取り出して、解消することのできない何かであると思い込んでいる。だけども、私たちの心は比喩でいうように、花瓶やなんかと違って、それほどもろいものではないと思っている。そこに根拠はなくて単なる願いではあるけれど、少なくてもそれを否定しきる十分は材料はまだないはずだ。ましてや、ひとつひとつの出来事に絶対的な意味があるわけでもない。

そして、これも憶測になるのだけど、その虚無感というのはようするに、自分はすでにすべてをうしなってしまったというような感覚的なやるせなさ、なのではないかと思う。自分の知覚するもの(知覚する価値があると感じているもの)がすべて、すでにあるべき形、もしくは変えようのないものであって、自分が手を出す(消費する、介在する)ものではないと感じる、失うことなく疎外される瞬間なのだ。

 

 「若者たちは現実というものが少しも頼るに足らぬ儚い事物ばかりで出来た世界である
ことを、そしてわけても他ならぬ自分自身がそれらの儚い物の一つであることを痛烈に
意識し始めていた。彼らはなんとかしてこの悲しい状態から出口を見出そうとして身悶
えした。儚い事物の一つであることを止めて永遠の生命を享受する存在になろうとした。当時の代表的な詩歌には『永生』(khulūd) という言葉が繰り返し現われて来る。」

井筒俊彦イスラーム生誕』から

 

どうせ死ぬのになぜ一生懸命生きるのか - Lemon & Citrus

から再び引用。

 

繰り返すが、前述の問題というのは、失ってしまったことではなく、これ以上失えないこと、これ以上介在できないことにある。希少性のあるものを失うことと、100個のピーナツが99個になる瞬間は同じになりえない。では、失ったあとに残る未練と達成感の違いは何かというと、これも、この文脈によって、より 純粋に/完全に/全面的に 消費できたか、という話になるのだ。

わたしたちは、何かを欲しい、何かをしたいという欲求のあとに、何かと永遠に、少しでも長く携わりたいと思うようになる。会社(going concern)の繁栄も自分の関心のある領域の洗練化なども含めて、自然と自分が携わるものが高度に続いていくことへと関心が向かっていく。DNAのなかに永遠に対する焦がれのようなものが、どこかにあるのだとすれば、ようするに、関心や献身を含めた莫大なエネルギーの効率的な消費が示唆されるものに対する憧憬なのではないのかな、と思う。

僕自身もまた考える暇もなく色々なことを続けているけれど、そのなかにもやはり無意識なレベルの優先度はあるように思う。

そのことを思うに、”いったいなぜそれを続けているのだろう”という問いに答えるような形で、僕は目の前にあるものを改めて眺めてみることもできるだろう。というのもそれは、続けるに足るものであれば続け、そうでないのであればただ止めるだけの話なのだ。

 

そのときに見えてくるもの、そのときに感じるもの。

僕はそういうものをこれ以上無視したくないと思う。

 

 

 

 

(もう朝だ...)

 

 

 

mistnotes.hatenablog.com

 

 

 

 

(補足)書かなかったけど書いているあいだに何となく思い出していたものリスト

利己的な遺伝子 <増補新装版>

権利のための闘争 (岩波文庫)

デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化

自由からの逃走 新版

呪われた部分 (ちくま学芸文庫)

 

宮崎駿監督が『アーヤと魔女』を語る、そして、今足りないものとは… Hayao Miyazaki(2020.12.29) - YouTube

 

(補足2)

気分がのったらDMN(デフォルトモードネットワーク)と美意識の本質、みたいなタイトルでまた記事をかくカモしれません(書かない)