読んだ本の感想記事、再魔術化する世界での生き方について

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僕が思うに思考体力のある人間は常にマジです。自分の人生の問いについて24時間、365日考え続けている。そんな人がたまにいます。

落合陽一『これからの世界を作る仲間たちへ』

専門的な暗黙知を持つクリエイティブ・クラスを目指す

 

面白かった本は定期的に読み返し、メモを残しておこうかなと思ったので、さっそく1冊目の再読記録をつけることにする。なお、僕は書籍に限らずレビューなどを今まで書いたことがないので、自分の感想を共有したいというよりは、あくまで大まかな内容を後になっても簡単に振り返ることができるくらいの丁寧さを目標に、続けていければよいなと思う。

落合陽一さんという日本の研究者、大学教員の方が書いた本。著者の研究分野と関わりのある、IT方面の最近の動向を探りながら、これからの時代を生きるために必要な姿勢について考察をしていくスタイル。前半の方では、割とよく見られる論調でもある、一部の専門性・独自性を持つ人たちだけが生き残れるようになり、簡単に再現可能なスキルを身に付けることにいくら労力を割いても、すぐに模倣、分析されることから、いつでも代替可能な人材(別に誰でも良いひと)としてしか生きていくことができなくなるよ、といったような話。

ただし、Morris Bermanの「デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化」から来ているであろう「脱魔術化」「再魔術化」といったワードや、ナレッジマネジメントの分野でも使用されている、「暗黙知(マイケル・ポランニーによって命名)」といった概念を用いて、巧みに説明しているところがこの本の面白いところ。

今までの有史の世界では、「火を使用して食品を加熱すれば腐りにくくなる」といったような偶然の発見から始まる知恵を蓄積していき、後になってから、化学の発展等によりそのメカニズムを解明してきた。

これは、「理由(仕組み・原理)はわからないけどとにかく便利なこと(ここではそれを魔術と呼ぶ)」を科学的手法によって解明(脱魔術化)してきたと言うことができる。

今までの歴史というのは、偶然から始まったこの魔法の世界(なんだかわからないけど便利なことがたくさんある世界)から脱魔術化すること(それぞれを解明・体系化すること)を一つの目的としていて、それによって単に使えるだけではなく、それを再現して誰でも共有できるような、つまり知識を集合知として社会全体に浸透化させる、ということを行ってきた。

ところが、今の時代は、反対に「再魔術化」が進んでいるという。IT技術をはじめとする高度で複雑な仕組みが発展していき、ICカードスマートフォンVR映像など、誰もが簡単に使いこなしているが、どういう仕組みでそれらが機能しているのかをちゃんと説明できる人は少ない。

先ほどの触れたように、解明済の誰もが再現可能な知識を”形式知”(共用された知識)と呼ぶならば、後述したような一部の専門家しか理解できていないような知識は”暗黙知”(共用されていない知識)と呼ぶことができる。そしてこの暗黙知に熟達しているならば、その人は代替可能な使い捨て人材ではなく、重宝される唯一無二の人材になりえるというのだ。

世の中にはサービスを提供する側と、提供されたものを使う側がいる。どれほど独自性があり複雑なもの(魔術)でも、著者の言葉を借りれば、”その魔術の裏側には「魔術師」や「魔法使い」が必ず存在している”。この魔術、暗黙知を持って、その人にしかできないオリジナリティのあるものを人々に提供できる人たちこそが、クリエイティブ・クラスと呼ばれるような今をときめく創造者であり、私たちはそれを目指していかなければならない。

では、どうやってその暗黙知を深めていけばよいのか。また、もしその暗黙知がとても限られた小さな問題であり、世の中の多くの人にとって魅力的なものではないとしたら?

それについては著者がこの書籍の中で具体的に述べているのでここでは深く言及しないが、例えば「日本の1億人ではなく世界の70億人を相手にしよう」「解決したい「小さな問題」を探そう」等と、あくまで理想論としてではなく、自分の身近な仕事の視線で考えられるような方法を提唱している。

 

大人から「好きなことを見つけろ」「やりたいことを探せ」と言われると、「僕は何が好きなんだろう」と自分の内面に目を向ける人が多いでしょう。そこからいわゆる「自分探しの旅」みたいなものが始まるわけですが、これは袋小路に行きあたってしまうことが少なくありません。

しかし「自分が解決したいと思う小さな問題を探せ」と言われたら、どうでしょう。意識は外の世界へ向かうはずです。そうやって探したときに、なぜか自分には気になって仕方がない問題があれば、それが「好きなこと」「やりたいこと」ではないでしょうか。

また、その「好きなこと」「やりたいこと」を探るための問いかけとして、下記のような視点を持つことをおすすめしている。

・それによって誰が幸せになるのか。
・なぜいま、その問題なのか。なぜ先人たちはそれができなかったのか。
・過去の何を受け継いでそのアイデアに到達したのか。
・どこに行けばそれができるのか。
・実現のためのスキルはほかの人が到達しにくいものか。


自分の価値=オリジナリティと専門性を活かして、これまで人類が誰も到達できなかった地点に立つ

そんな感じの解説のみでこの本が終わっていたのならば、僕はすでに「デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化」を読了しているので、良いこと書いてあったなくらいな印象で終わっていたと思う。

そうではなくて、自分にとってこの本がわざわざ感想をまとめたいと思える印象的なものになったのは、この後の「じゃあ結局何をすればいいの?」ということへの著者の考え方や、それに対する「ガチで取り組む」というそのストレートすぎる姿勢に共感できた点にあったように思う。 


人は歳を取れば取るほど「何のために生きるのか」を考えなくなり、目の前の幸福や不幸に右往左往しながら暮らしていくものですが、信念を持っている人間はその問いへの明確な答えを持つことができます。それは、「いまできる人類の最高到達点に足跡を残す」ということです。

これはちょっとマッチョな、筋肉質な考え方だとも言えますが、少なくとも僕はそれしか考えていませんし、研究者や芸術家をはじめとするクリエイティブ・クラスはおそらく誰もがそういったものを持っているでしょう。自分の価値=オリジナリティと専門性を活かして、これまで人類が誰も到達できなかった地点に立つ。それが、僕の生きる意味であり、価値であると思っています。
自分しか気づかない小さな問題を解決するための専門性を身に付けることで、その問題における「最高到達点」を狙うことができる。前述したように、70億人を相手にすれば、どんなにニッチな問題でも大きな価値を生むことができるのです。


暗黙知であったり、クリエイティブ・クラスといった話しは確かに役に立つのだけど、もし「生き残るためにはどうすれば良いのか」という領域を出ない話だったのであれば、 どれだけ高尚であっても結局はライフハックの類でしかなく、本棚の目立つところにあまり置いておきたくない気持ちになってしまう。お金を稼ぐこと、他の人よりも高い名誉を持つこと、生活に余裕があること。聞こえこそ良いが、そういうことを単体で一つ一つみると、どれも大して面白みがないものだ。

しかも、実際にTwitterインフルエンサーと呼ばれるような人たちを見ると、確かに落合さんや堀江さんのような人であるならば、「唯一無二」と言うことはできるかもしれないけど、そうではない大半の人たちは、同じような凡庸なことを、同じトーンで語っている。

厄介なことに、実際に生活できる程度の収入をネットで得ている人たちにとっては、専門性・独自性を追求することよりも、そういうありきたりで凡庸なことに退屈しない能力の方が重要なようにさえ、個人的には感じてしまうことがある。

彼ら(大半のインフルエンサー)が語っている内容というのはどれも正しくて、理屈っぽくて、それゆえに退屈だ。そういうことに辟易している自分としては、やっぱり理屈ではない何かが原動力として欲しいと思ってしまうわけで、そういう意味で書籍の後半の方で述べられている、「人類の最高到達点」に足跡を残すというシンプルで持続的な信念は、なんとなく惹かれるものがあると思った。ただ、目の前の人たちに好かれているだけでは満足できないような、憧れの気持ちと焦燥感がそこにはあるからだ。

大半の人は失笑してしまうような壮大なことを、自分にとって当然のミッション・「生きる意味/価値」として平然と捉えられるなら、人生はどれだけ面白くなるのだろうかと思う。

とはいえ、そういうことをあたかも人類全体の普遍的な価値観のように語ってしまうと、自分の信条を社員に押し付けるような、薄気味の悪い利他性が生まれしてしまう。しかし、この著者は、崇高な目標を持つことは、誰もにとって共通な使命などではないことをわかったうえでそう述べている。だからこそ、それは「信念」であり「執念」であると言っているのだ。

 

・いつまでもマジに考え続けること、好奇心とテンションを高めに設定し続けること、要領よく子供であること。


・自分の見つけた問題を解決するため、徹底的に考え抜くーそこに「厳しさ」や「苦しさ」を感じる人もいるかもしれませんが、僕はそれ自体がものすごく楽しく、幸せなことだと思っています。

・世界に変化を生み出すような執念を持った人に共通する性質を僕は「独善的な利他性」だと思っています。それは独善的=たとえ勘違いだったとしても、自分は正しいと信じていることを疑わず、利他性=それが他人のためになると信じてあらゆる努力を楽しんで行うことができる人だと思います。そのためには、まず猿真似でもいいから始めること、そして自分の視座を執念深く追求し、興味を見つけ極めていくことが重要なので、たくさんの知識を貪欲に吸収してオリジナリティを追求していって欲しい。それはこれから先、いつの時代でも幸福な生き方だと思います。

 

以前も違う記事で書いたのだけど、僕は「静かな情熱をたずさえているひと」をかっこいいと思ってしまう傾向があるようで、落合氏もやはりそんな人の一人のように感じた。

「楽しければよい」「好きなことやればよい」という享楽的なだけの価値観も確かにそれはそれでよい。好きなことを無理のない範囲で頑張って、それで生活することも悪くはないだろう。だけど、それだけだと何か釈然としない感じが残ってしまう。

「伝説を残したい」「ヒーローになりたい」「力を尽くしたい」といったような、少年漫画・少女漫画で学んだような、理屈で説明することが野暮と思われるような漠然とした憧れが、自分に限らず多くの人の心の奥の方に、くすぶらずに残っているように思うのだ。

自分のことだけを考える快楽的な思考が悪いとは思わないけど、そんなことは20数年も生きていればとっくに飽きてくるものだ。だからといって、「お客様の笑顔だけが私の唯一の幸せです」みたいな、自己を押し殺すことを強いるような利他的な価値観にも、スポーツ根性もののようなドストイックな精神論にも馴染むことは難しい。

だけど、なんというかこの人は、これらの中間の位置(中庸)に自然体で立ったうえで、自分自身の目の前の生活と、利他的な貢献心に依存することのない自律的な努力を楽しんでいる感じがして、そういうところに魅力を感じたのだと思う。

僕自身の生活を振り返ってみても、"「好きなこと」「やりたいこと」そのもの"を自分の収入に直結させることは容易なことではないように思う。だけれども、それが好きであり、多くの時間をそこで使っている経験があるからこそ、「こうすればもっと良くなるだろうに」というような、一人の愛好者・ユーザーとしての率直な疑問もでてくるものなのだ。

落合さんはそれこそを自分自身の課題として、また同時に社会全体にとっても利益になるような形で解決すればいいんじゃないの?、と言っているわけだ。

「再魔術化」によって複雑性を持ちながらも、表面的には誰にとっても優しくて使いやすいプロダクトが増えている。スマートフォンを毎日欠かさず使っている僕でも、ポケットベルの仕組みさえ、Wikipediaの記述以上のことは知らない。

必要なことは、それらを当然の権利として、何の疑問も抱かずにただ享受するだけのユーザーにならないこと。スペル(呪文)を掛けられる側としてだけではなく、掛ける側(Wizard/魔法使い)としての立場とスキルを同時に磨いて、社会に還元していくこと。そういう視点が「これからの世界をつくる仲間たち」には必要なのだ。ということで、好きな本のまとめ1冊目でした。

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