いつもの暗い場所、暗いもの

たくさんの本を読んでみたり、新しい経験を積み重ねてみたり、そうやって何か少しだけ生きているのがましに思えるようなことをしてみたところで、根本にあるものが変わっているのか、と思うと疑問が残る。多分、それは変わらないのだろう。好きになるとか、嫌いになるとか、そういう話しではないのだ。

空気が淀み、目の前にあるものが前にも見たことがあるものだと気が付く。そして当たり前のように疲れて、嫌になる。そういう時に、うんざりした気持ちで本やモニターから目を逸らし、目をつぶって、見過ぎたものを忘れようとする。

そのときに感じる胸の奥にいつまでもあるような不快感、やってられないという気持ち、何度も忘れられないまま反芻される楽しくない記憶、それを抑えようとする健全な考え方、少しづつそうやって積み重なっていくものが、疲労を感じて目をつぶると眼下に浮かんでくる。そして、そのときにだけ僕は現実というものを実感する。これが現実なんだと感じてしまう。

楽しくて心地良い時間は、その現実を少しばかり遠くに追いやるだけで、追いやったところで、いつかはまた同じようにやってくるのだ。多少、前よりも遠くまで投げられるようになっただけで、何かを変えているわけではない。

この半年くらいで、また大きく変わったこともある。死にたいという気分を追いやれないまま朝を迎えることも、天井を眺めたまま一日を終えることも、ほとんどなくなったと思う。僕は多分、少しだけ忘れることが上手になった。前よりも長く忘れていられるようになったのだ。

その合間に戻ってくる、その暗い場所はいつも同じだ。空気が淀んでいて、使い古された同じ記憶が待っている。そして、くだらないことだとはわかっていても、同じように少しだけ悲しくなる。

なんとなくこの生活に望んでいることは、多分それほど大きくは変わっていない。目の前にあることを、嫌なことを減らして良いことを増やすために、ただひとつづつ、淡々と丁寧にこなせれば、と思う。別にそれが必ずしも、自分ごとである必要もないだろう。信念でもなく単なる事実として、嫌なこともつきないし、良いこともつきないのだ。醜いものがありふれているのと同じように、美しいことだってありふれている。

どの仕事も、大きすぎることも小さすぎることもない、というのは最近読んだPeter Thielの本の片隅に載っていた言葉だけど、僕はこの言葉を好きになる気がする。その言葉を実感できることが増えれば、また少しだけ近づける気がするからだ。