「見る」のか「見るだけ」なのか。

ユニクロのコラボである「+J」シリーズで話題になっていたけれど、こういうブランドものの展開とかパリコレみたいなデザインやアートに関わるものというのは、ネットで画像を検索するだけで1日潰せるくらい飽きなかったりする。

それと同時に、そういうことは今ではやらないようにしている。僕自身が以前Tumblrという画像共有するSNSを毎日何時間も眺めて、Reblogして、色々な現代美術や作家・作品等の違いについて徐々に詳しくなっていったものの、どうしても途中から単なる時間泥棒の気がして止めてしまった。

小説を読むことにしてもそうだった。好きなだけ本を読むことに対して罪悪感がある。だから辞めた。辞めても代わりにやりたいことなどなかったから、ただのつまらない人生になってしまった。

多くのものを眺めているだけでも楽しめてしまい、その先には何もないように思う。典型的なお金に関わる成功者とそうでない人に優劣を持ちたいとは思わないけど、それでもやっぱり成功している人と失敗している人は違う。

僕は失敗している人であるけれど、何に失敗しているのかはわからない。何に成功しているひとを成功者だと思っているのだろうと考える。自由であることなのか、表現ができていることなのか、生活をコントロールしていることなのか、社会に表現が認められていることなのか。少なくてもそれは頭の良さではないし、フォロワーやファンの数でもない。努力主義でもないし、好きなことをやっていれば良いという訳でもない。それでも違う。彼らは違う。自分とは違くて魅力的なように映る。例えどこかでひっそりと一人でいるひとであったとしても。

「見る」ことが、自然と自分の表現欲や欲求に繋がる人もいれば、そうでない人もいる。おそらくはその人にあったmedium(媒体)を持っているかどうか、という違いなのだと思う。文章もコピーも、ダンスも、愚痴も、文房具も、動画も、テクノロジーも、声でさえmediumだ。

『なぜ見ているだけでは駄目なのか。-それだけでは生活ができないからだ』

この会話は一見成り立っているようにも見える。しかし、表現はそんな生活に制限されるようなケチくさいものではないと思う。仕方なくやるものでもないし、努めてやるものでもない。ネットで他人に対して不満ばかり言っている人でさえ、それは表現の一つであり、誰にとっても馴染みのあるものだ。

 自然な欲求があり、それを助けてあげるのでなければ、何のための努力なんだろう。ぼくはすでにそれを絶対視しているわけでもないし、それに何かこだわりを持ちたいとかそういうふうに思っているわけでもない。だけどそれでもやはり、ケチくさいものではない。ケチくさいものであってはならないとは思う。