疲れないために考えてみること

 

レジに並ぶお客さんは、好きなだけ待たせておく

 

コンビニバイトしていると、朝や夕方の忙しいときは、1時間くらい延々とレジに並ぶお客さんの対応をしないといけなかったりする。

それはそれで結構疲れるし、めんどいなって感じることもある。ただ、冷静になって考えれば、そもそもなんでこんなことで疲労を感じるのかな、と思ったりもする。

よくよく考えれば、数時間突っ立って、手と口を微量に動かしているだけのことだ。目の疲れや喉の渇きといったものも確かにあるかもしれないが、中学生や高校生の頃にやった体力トレーニングなんかに比べると、何もやっていないに等しいものだ。

そういう風に誰かに言ってみれば、「いや、それは違うだろ。体力的な疲れと精神的な疲れは別物だよ」と言われるだろう。

その指摘は全くその通りではあるのだけど、体力的な疲れに比べると精神的な疲れというのはある意味で捉えどころのないものだ。つまりは、その原因となる実態的なものが存在していない

アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係の悩みである」と主張している。実際には、すべてとはいいがたいとは個人的には思うけども、ある意味では的を得ている指摘でもある。

というのも、結局のところ、精神的な疲労など他人や自分に対する気遣い意外の何ものでもない、と感じるからだ。

 

疲労の原因は倫理観との軋轢にある

 

レジが忙しい時間帯が、そのほかの時間に比べてしんどいと感じる理由は、並んでいる人に対する無意識レベルのプレッシャーや、忙しいことから誘発される小さいミス等に関する自責、また面倒くさいお客さんへの他責の気持ちなどもあるだろう。

こういうのは要するに、倫理観の問題だ。他人に迷惑をかけてはいけない、とか、嫌われてはいけないとか、想像上のルールブックに従って、無意識化に判断を下し続けていることが好悪の感情に繋がっている。

そうだとすれば、逆に言えば、倫理観が崩壊していることが「疲れない生き方」の一つの理想の形だと言える*1のではないのだろうか。

レジの前の行列が、お店の中に留まらずに隣の県まで続いていたとしても、そのあいだ何十時間待たせようとも、また、そのお客さんが全員殺意に満ちた顔でこちらを見つめていようとも、「だからなに?」と一向に構わないのであれば、精神的にはノーダメージなのだ。

世の中のすべての人が敵だろうと、後ろ側から刃物で刺されたり、不意に殴られたりしなければ良いのだ。むしろ、殴られたりして身体的なダメージが生じたときに、初めてその状況が問題となりえるのであって、それまでは無問題であると考えることができる。

信用経済の社会のなかで、実際にそういう態度でいることは多くの問題を生むことはわかるけども、一般的な道徳的価値や倫理観のあるふりをしながら、心のなかでは、何も気にしていないという状況であるならば、まったく問題はないだろう。

 

その倫理観は固有のものでも共有しているものでもない

 

おそらく、実際にそういうやり方を勧めてみたところで、抵抗するひとが多いだろう。また、そもそもの理想論であって自分でも実行可能なことなのかはわからない。

ただ、ひとつ言えるのは、倫理観なんていうのは勝手な妄想であるということ。挨拶をしたときに無視されたら苛立ちを覚えるとすれば、「挨拶をしたら、挨拶し返さなければいけない」という道徳的態度を、相手に押し付けているのに過ぎないのだ。

倫理観は、お互いに不快な思いをすることを最小限に抑えるという点で、有効なものだ。それについては、まったく異論がなくて、道徳的良心をもっていること、性善説、そういった類のものについても美しいものだとは思う。

しかし、そうではあっても、それが不必要に気分を害したり、精神的な不調の原因となりえるのであれば、わざわざ固執するほどのものでもないようにも同時に思う。それはあくまでも対外的な社会上のルールであって、精神的支柱でも何でもない。

この話しは「他人の視線なんか気にするな」「自分勝手に振る舞え」といった類のものではない。そうではなくて、絶対に正しい道徳、倫理感なんていうのはどこにも存在しない、ということを時々思い出した方が良いということだ。

そうなれば、もっと柔軟に構えることができるようになり、自分にも他人にも優しくいられるだろう。

 

 

*1:優しく言えば、倫理観に柔軟性を持たせること