「やりたい」「したい」の面倒くささ

やりたいことやしたいことに明確な順序ができているときは、大体面倒くさい気分になる。これがやりたい、あれがやりたいという欲求が、目の前のことの面白さの判断に繋がってしまう。判断していいのは自分ではない。なぜならこの「自分」というのは過去の自分の嗜好と傾向でしかないのだから。

自分が普段、「フラットで淡々としたもの」に憧れを抱きつつあるのは、過去の価値観に囚われている状況を良しとしないから。余計な装飾が多すぎて、目の前が見えていない。

そういうと「目の前のものをもっとよく見たい」ということなのかと解釈をしてしまうがそういうことでもない。見たい・見たくないなんてことを言うまでもなく、「見えている」のだから、ただそれだけで良いのだ。

動作主体の価値観は疲れる。そこにはいつも何らかの二面性がある。形容詞があればいい。当たり障りのない愉しさや美しさを感じる形容詞があれば。

仏教というべきなのか、禅というべきなのかわからないけど、それにおいては「生きろ」とか「死ぬな」という強い主張はない。もちろん自殺したり死ぬことを否定するような形はあるにしても、それが死ぬことが駄目だからではなくて、生きていることの自分勝手な否定になるから良くないと言っているだけなのだ。

「あなたは生きている。生きているのになぜ死ぬ必要があるのか」というのが、それにおける視点であると思う。目の前にある淡々とした事実(実存在)以外はすべては妄想なのだ。(厳密にいうと、実存在というのも関連(縁)における仮想物だというのが、それにおける立場ではある。)