美味しいご飯

幸いにも仕事としてやることに見通しはついたのだけど、最終的にそれらが何になってどこに繋がってそこにどう意味を見出すのか、という話しになると結局いつものように何も見えなくなっていく。

アンパンマンの歌でいえば「何のために生まれて、何をして生きるのか」の後半の部分にようやく見通しがついたところだ。前半部分はいまだにくすぶっている。

自殺しても良いとは思っているけれど自殺は別に急ぐ必要がない。いつやっても結果は同じなのだから。仕事をしてお金を得ることと、いつか自殺すること、または死ぬことの間に中間の地点がない。

仕事自体が楽しくて仕方ないのならばそれでも良いのかもしれないけど、そうすると夜中にまた考えることになる気がする。幸いにも、いまは割と起きてすぐにいま勉強していることに簡単に意識が向かっていくので、そういう意味では多少では楽ではある。

せいぜい楽しむんだな、くらいな感覚なんだろうか。せいぜい頑張って、せいぜい幸せになって、せいぜい夢をかなえるんだろうか。

多少その過程でポジティブになって周りの人に感謝をするようになってそれで一体何になるのか、と思う。自分がいくら人に感謝しようと、多くのひとは自分に対して無関心で、見下していて、どうでも良いと思っている。それで、自分が何かを頑張ってそれを認めてくれる人がいるとしても、何かが変わった気はしない。何かは確実に変わるだろうけど、たぶんそんなことはどうでも良いと思っている。

仕事は別にご飯のためでも良いと思う。文字通りにご飯のためでもだ。いま自分が夢中になる時間が、チョコレートケーキやコカ・コーラやオムライスやスプライトやらに変わるのならばそれはそれで良い気がする。仕事をしておいしいご飯を食べる。わかりやすくて好ましい。

仕事をすることと、自殺をすることの中間点について考えると、「好きな人のためになんかする」ということがその間になっても悪くはないような気はしている。やなせたかしさんは「誰かを喜ばせる」と言っている。悪くはない。良いのかはわからなくても。

移住するとか、車を運転するとか、月に行くとかそういうのも、ケーキを食べるのとそれほど変わらない気はする。でも、やっぱり割り切ることはなかなか難しいね。その根本は、生きてるから生きるのだとそういうことなのかな。わからないな。