退屈な時間は、あえて淡い希望を抱いてやり過ごすこと

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ドアからベッドまで一直線に駆ける

昨日は夕方に5時間だけお仕事した。コンビニ店員ってやつだ。

いつもの半分しか動いていないのに、めちゃくちゃ疲れた。

歩くのもしんどくて、休み休み、家に帰った。そのままベッドでうつぶせのまま眠って、一夜明けている。

いまはもう回復しているけれど、働いている時の絶望感を思い出しながら書いている。絶望というか、希望も絶望もない、虚無感といった方が良い。空気の抜けきった風船のような、情けのない虚無感だ。

こういう虚しさを感じないために日々何かを考えているのだとしたら、そんなことには大した意味がない。思考は行動(何をするのか)を変えることはできるけど、不随する感情(その行動をしているときに何を感じるのか)まで変えることは容易ではない。本当はできるのかもしれないけれど、少なくても今は。

そもそもぼくは、ここ数か月は憂うつな気分が続いているような気がするけれど、その前に海外で住んでいるときは、ほとんど感じることがなかった。帰国してからずっとこんな調子のように思うし、それは僕が数年前まで日本にいるときの精神状態に戻っているようなものだ。

こういうのはつまり、精神状態というのは何よりも外部の環境の影響を受けるものであって、意識的にコントロールできることを、今はそう期待するべきではない、と考えるようにしたい。憂うつや不調であるならば、原因を内部に探らないで、水分をこまめにとるようにしたり、肉をたくさん食べたり、ぬるめのシャワーを浴びたり、そういうことに時間を使えば良い。

これは自分自身でコントロールすることの難しさを感じるものと同時に、外部環境さえ意識すれば、感情なんてわりところころと、自分の思うように安定してくれる可能性も示唆している。*1

 

 

永遠に続くような、つまらない時間との付き合い方

 

 どのような理想を抱え、ばりばり改善をできたところで、どうしてもそのところどころに無意味というか、人生を浪費しているだけに感じるような時間が生じてくる。

べつに僕は「貴重な人生を浪費している」なんて悲観的な気分になりたいわけではなくて、お金がないのだし、お金が貯まるのだから別に淡々とやればいいじゃない、とは思うのだけど、やっぱり昨日のように、やりがいのない時間と体調不良が重なってしまうと、ずいぶんと気分が滅入ってしまう。

 

mistnotes.hatenablog.com

 

昨日の記事では「なぜ真剣に生きるのか」ということについて書いてみたけれど、だけども真剣になることが滑稽でしかない状況というのも確かにあるわけで、そういうつまらない時間との付き合い方というのも気になってしまうのだ。

 

しかし、ここまで書いたように、つまらない時間というのはつまらないと感じる環境がつくるものであって、外部要因が多すぎるなかでは、身動きがとれなくなる。そして、どうしても、楽しいとも有意義だとも感じられない。

そうなると、結局のところは、「状況が変わるまでは、息を止めるようにして動く」という風に、条件付きで気分を紛らわしながら動く方が、よほど自分のために良いようにも思う。

 

過酷な日々のなかで、心を折らずにどう生きてきたのか

 

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

 アウシュビッツのような、強制的に強いられた過酷な体験について記された本を何冊か読んだことがある*2けれど、そこでは「大きな希望を抱く人から心が折れていく」状況が描かれていた。明日こそは、次こそは自分は助かるかもしれない、と毎日願い続けていても、現実は冷酷で、何日たっても、何か月たっても、何一つ状況が改善する見通しがない。そういうジレンマのなかで、期待と失望を、短期的に何度も何度も繰り返していると、心が疲弊して弱ってしまうのだ。

 

そういう状況のなかで、心を折らずにいられた人というのは、淡い期待を抱いている人たちだった。「そのうち、何とかなるかもしれない」という、現実的な希望のかわりに、ささやかな希望を持つことができた人たちだった。抽象的なおぼろげな期待だったからこそ、何年にもなる絶望的に過酷な状況のなかで、彼らの心のよりどころとなったのだ。

 

単なる「バイト疲れたよ」って話しから、ナチス強制収容所の話しを引っ張りだすのは、やりすぎのような気もするが、この話しを思い出すに、あらためて思うこともある。

つまり、疲弊している人たちを、その場から救ってくれる希望がいつのときでもあるのだとすれば、それは案外Specificなもの(特定の要因を持つもの)ではなく、Fuzzyなもの(あいまいであること。柔軟性があるもの)なんじゃないかと思うのだ。

 「何のために」「どうして」と考えるのが、どういうときでも自分のためになるのではない。だけども極端に、「何もかも無意味だ」と悟る必要もないような、あいまいで手がかりのない時間というのも案外多いのだ。

そういう退屈な時間は、解決策を見出しそうと躍起にならずに、あえて淡い希望を抱いてやり過ごすこともできるということ。

そういうのも悪くないように思えたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

*1: NLP(心理学)や、システム思考のようなものは、そういう全体性を前提としているから、そういう分野のやり方を参考にしてみれば良いかもしれない

*2:ユダヤ人の強制収容所での体験を書いたヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」ですが、英語版のタイトルは"Man's Search for Meaning"となっています。日本語のタイトルも好きですが、このタイトルもまた印象深いです。