「努力をする必要はない」という言葉の本当の意味

「努力は必要かどうか」ということについては、まだ割り切れていないところがある。というのも、本を読んだり考えたりするなかで、「努力は不要だ」という考え自体にはわりと馴染んで来ているのだけど、その一方で「努力を惜しまない」タイプの意見にも説得力があるからだ。

それで色々考えてみたのだけど、そもそも努力って何かというと、かなり主観的なものだということがわかる。ある行動が、誰かにとっては努力ととらえられるものであって、別の誰かにとっては息抜きであると捉えられるようなことは珍しくない。

そういうことを考えると努力をしているかどうかというのは本当にどうでもいい話であって、ある事実に対する単なる感想・意見でしかないのだ。そして、そのある事実というのは、努力の後ろには必ず作業があるということだ。

天才と呼ばれるような人が「いや、まったく努力なんてしていませんけど?」と言おうと、「寝る時間も惜しんで努力してました」と言おうと、何らかの作業を行っていること自体には変わりはない。寝ている間に、妖精さんが靴を作ってくれるのは、グリム童話の中だけの話なのだ。*1

そして努力をしていようがどうだろうが、作業時間が多い方が必然的に多くの成果物を残すことができる。実際に、クオリティを意識しながら少ない作品に集中するよりも、数をこなすことに注力しながら良いものを作ろうとする方が、最終的な成果物の質が良くなる傾向にある、というような研究結果もでているのだ。

だから、努力は不要という言葉を聞いて、「何もしなくてもいい」と考えるのならばそれは間違いである可能性が高い。「努力をする必要はない」という言葉が意味するものは、「同じ成果物ができるのであれば、リラックスしながらやれた方がいいよね」くらいのものだろう。

ということで、それが努力かどうかなんて言うことはもう忘れてしまって、ただ単純に作業時間を増やそうと思えるのであればそれで十分なのだ。(20m)

*1:実際のところは、工場のようなオートメーションの技術を使用するところや、書籍・動画などの資産物の構築等、一つの作業をレバレッジする技術はいくらでもある。(習慣なんかも一度できると、意識しなくても繰り返すことが出来る。)そういうものにおいては、冷静になって考えてみると、1度作れば後は寝ているだけで良いという点で、ファンタジーというか、魔法的な魅力がある