価値についての覚書

昨日、少しTwitterで考えていた話。

行動力とか変化する力とか成長性とかそういう色々なものと基本的な要因って何だろうな、という疑問の中で、自由に価値を見出すスキルという仮説を立てた。

具体的に価値力という言葉はないので、説明がしにくいのだが、”倫理観”という従来重要視していたものは、正しい・正しくないという判断とともに、ある物事に対して怒ったり共感したり、といった感情を誘発するものである。しかし,SNSなんかで炎上して誹謗中傷していたり、「頭ではわかっているのに行動できない...」みたいな、情けのない発言がどこから元なく聞こえてくるようなことは、この倫理観ベースの考え方に原因があるのかもしれない。感情が動けば簡単に行動できるのであれば、おそらくこのような問題は生じていないはずだから。それどころか、”本当はやりたいのだけど、続かない”なんていうのは、感情に邪魔されている物事のひとつである。

感情を誘発するものが倫理観だとしたら、行動を誘発するものが価値観なのではないか。”価値”という言葉もまた定義がしにくいのだけど、”価値がある”とわかるものであれば、何も考える暇もなく行っている。

このような前提をもとに再考すると、

(倫理観に基づく)意志=価値への抵抗、努力=抵抗の時間をかけること、行動力=価値を自由に感じる感性、思考=価値観の再定義

ということが出来る。

これは、”価値を感じられることは放っておいても自然にやっている””価値観が拮抗している状態では、”意志”がなければ優勢の方に流れる””価値観と倫理観は一致しない””目に見えるもの、心理的距離感の近いものは価値を錯覚しやすい”という、その他の前提や派生形の考察も生む。

 

なお、その後調べてみたところ、価値論という哲学の分野はあるらしいが、あまりしっくりとくる解説は見つからなかった。

そもそも、これを考えたきっかけというのは「ありとあらゆるすべての書籍を読んで、あらゆる人の話を聞いても、お互いに反発している意見は絶対にあるのだから、それだけで行動しやすくなるはずないよな。」ということを想ったこと。

心理学の膨大のデータにせよ、ためになる話だろうと、思考や見た目いろいろな情報をもとに価値を見比べて、価値を再構成する作業に過ぎない。そして”価値がある”と判断されるものには勝手に行動がむかうのだ。

という仮説に少しでも妥当性があるのであれば、従来の努力や意志ベースの考え方というのは完全に不要になるのではないか。まぁ、こういう考察は基本的に外れているんだけどね。