なぜ仕事と恋愛は違うのだろう。

過程や結果、意義やその目的。そういうことに気をとられるのは、それそのものを楽しめていないからという気もする。

仕事をすること、生産的であること、人として魅力的であること、色々な考え方があってその考え方もいくらでも細分化することはできるけど、でもそこまで深く考えることでもないよなぁ、とお酒でも飲みながらふと思うのであれば、それはそれで正しいように思うのだ。

好きな人がいて、何をしているのか気になって、できればもっとたくさん一緒に時間を使いたいと思う。そういうありきたりなシチュエーションにいるときに、その目的について考えるだろうか、意義について思いを巡らすだろうか、メリットとデメリットについて考えることが、モチベーションになるのだろうか?

モチベーションという考え方そのものが似合わないし、野暮ったいと思うものではないか。そしてそれこそが仕事に対する自然な考え方なのではないか。

多くの人が自分の行っている仕事に誇りを持てず、できればやめたいと思っている。不幸な人も少なくない。そのような世界で、そのようなことがあまりにありふれている世界で、他人がいっていることなど十分に気に掛けるのに値するのだろうか。9割の意見と、そのもととなる価値観はそもそもが間違っている、もしくはポジティブな言い方をすれば再検討の余地があるように思うのだ。それによってひとが不幸になっているのであれば。

 

なぜ仕事と恋愛は違うのだろう。なぜ多くのひとは、それを分けて考える必要があったのだろう?そもそもの分断の経緯というものを歴史の背景をもとに捉え直して、本来そこにあったはずの単純な世界観を取り戻し、力強く愛でてみるのも良いのではないのだろうか。

美味しいご飯

幸いにも仕事としてやることに見通しはついたのだけど、最終的にそれらが何になってどこに繋がってそこにどう意味を見出すのか、という話しになると結局いつものように何も見えなくなっていく。

アンパンマンの歌でいえば「何のために生まれて、何をして生きるのか」の後半の部分にようやく見通しがついたところだ。前半部分はいまだにくすぶっている。

自殺しても良いとは思っているけれど自殺は別に急ぐ必要がない。いつやっても結果は同じなのだから。仕事をしてお金を得ることと、いつか自殺すること、または死ぬことの間に中間の地点がない。

仕事自体が楽しくて仕方ないのならばそれでも良いのかもしれないけど、そうすると夜中にまた考えることになる気がする。幸いにも、いまは割と起きてすぐにいま勉強していることに簡単に意識が向かっていくので、そういう意味では多少では楽ではある。

せいぜい楽しむんだな、くらいな感覚なんだろうか。せいぜい頑張って、せいぜい幸せになって、せいぜい夢をかなえるんだろうか。

多少その過程でポジティブになって周りの人に感謝をするようになってそれで一体何になるのか、と思う。自分がいくら人に感謝しようと、多くのひとは自分に対して無関心で、見下していて、どうでも良いと思っている。それで、自分が何かを頑張ってそれを認めてくれる人がいるとしても、何かが変わった気はしない。何かは確実に変わるだろうけど、たぶんそんなことはどうでも良いと思っている。

仕事は別にご飯のためでも良いと思う。文字通りにご飯のためでもだ。いま自分が夢中になる時間が、チョコレートケーキやコカ・コーラやオムライスやスプライトやらに変わるのならばそれはそれで良い気がする。仕事をしておいしいご飯を食べる。わかりやすくて好ましい。

仕事をすることと、自殺をすることの中間点について考えると、「好きな人のためになんかする」ということがその間になっても悪くはないような気はしている。やなせたかしさんは「誰かを喜ばせる」と言っている。悪くはない。良いのかはわからなくても。

移住するとか、車を運転するとか、月に行くとかそういうのも、ケーキを食べるのとそれほど変わらない気はする。でも、やっぱり割り切ることはなかなか難しいね。その根本は、生きてるから生きるのだとそういうことなのかな。わからないな。

小さく楽しく批判すること

「批判はその先にあるものを捉えなければいけない」だっけ、なんかもっとカッコよかった気がするけれど、そういう言葉をどこかで読んで。

色々とチャレンジ精神だとかガッツだとか勇気だとか、魅力的な人の特性について語られることはあるけれど、「いちばん気軽で便利」という意味では批判精神を持つことが良さそうだな、と思った。

批判という言葉は、例えばカントの判断力批判みたいなタイトルからもわかるように「よく考えること・よく見ること」だ。それ以上の意味は本来なくて、もちろん非難のようなただの悪口とも全く異なるものなのだ。

では、なぜ批判するのか、という思想・哲学の部分が、実際に「批判する」というツール・手段以上に重要であるのだが、それは「より良い未来を確信していること」と一言で言ってしまうとわかりやすいように思う。

なぜ批判するのか、それも悪口ではなく批判する理由。好奇心を満たすということもあるけど、それ以上に「もっと良くなる/もっと魅力的になる/もっとわかりやすくなる」という洗練さへの憧憬のようなものだろう。

また、「Nobody's Perfect」という、とある映画で最後で笑顔で語る台詞のように不完全さを許容し、何ならperfectという終着点以上にその過程の変化へ愉しさを見出せる態度のあらわれでもある。

このように楽しい批判だけど、その言葉の印象はわりと重い。だけど、本来の方向性からいうともっと軽く、気軽に批判すれば良い。

最近はSEOを学んでいて「60%くらいのできで小さなテストを積み重ねる」という考え方になじんでいる。最初から100を目指さない。60で市場に価値を問い、反応が良かったら改善を積み重ねれば良い。そういう「小さな改善」という考え方が、最近読んだ「Atomic Habits」もあわせて好きになっている。

このことを教訓にして考えれば批判も同じように「60%くらいで小さく批判する」ことを積み重ねれば良いのだ。深刻にならずに、重大にとらえずに、楽しく、リラックスして。

 

僕は英語の勉強をするけど、例えば発音の勉強をするとき、一番効果的なのは自分でレコードして改善を続けることだと思っている。だけど多くの人はしない。うんざりしてため息をつくのが嫌だからだ。そして改善ということにはこういう「失敗は良くない」みたいな別のイメージがまた邪魔をする。

でも、もしそれがでたらめだったら?今まで避けていた批判が実は自己満足よりも楽しいものだったとしたら?目的が実は正反対でも、同様に機能するとするならば?自分の声を聞いて「これはひどい」とけらけら笑いながら、毎日改善を続ければ?

ほんのちょっとの違いだけれど、その先にあるものはまるで違う結果であるように思う。

 

好きな未来のためにいまを許さない愉しさをもつ

いまだに10年前の人たちが夢のなかにでてくる。

自分のことを覚えている人などいないし、その当時と同じ生活をしている人などどこにもいないのにも関わらずだ。その夢を見ることは自分にとってそれほど楽しくないことだ。でも、もし仮にその当時の記憶をすべて消せるとしたら、どうするだろうかと考えてみると、それはそれで気が進まない。モノを捨てられない人と同じように、つまらない記憶でもないよりはある方が良いと僕は思っているのかもしれない。

些細なことに腹を立てることもできるし、大きなことに腹を立てることもできる。その悩みや憤りの質というものが、その人の質といえるだろう。無感情で平然としていことは理想でもあるけれど、それは何も考えず何も感じないことではなく、素直に考え、感じつつも、それに囚われず、流されないことである。

絶望したいのではないのか、とふと考える。いまだに何かを引きずるのは、まだどこかで希望があると思っているからなのではないのか。想像すること、妄想する内容にも限度がある。今と同じことは、50歳を過ぎたときには希望にすらない。衰えて何も出来なくなったときに、30年前の若い姿で遊びまわる自分を想像しても仕方ない。

テレビゲームやVRを使って違う世界を観ること、テレビを見て違う生活を想像すること、そういうことのすべてが、現在の生活をないがしろにする行為のようにも感じる。工夫も計画もないまま、全く違うものに飛びつくことは非常に安易で退廃的な行いだ。

ポジティブであることや楽観的であること、それにどれくらいの価値があるのだろうか。「まだ何かしら打開策がある」というプロセス志向の楽観さと、「そのままでいい」という結果志向の楽観さには大きな違いがある。いま、SNSにいる人を見ると、大半の上手くいっていない人の原因は、そのポジティブ思考に囚われていることにあるように思う

どう見ても良くない状況であるのに、お互いに褒めあい、許容しあい、自分を許すことを勇気であると思っている。だけど、上手くいっている人を見ると、むしろその反対に位置しているのではないか。

良くない可能性を見つめること、失敗に対して責任を持つこと、嫌な感情を持ったときにその原因を冷静に見つめること、そのような一般的にネガティブと言われるようなものに対する許容性のようなものが必要とされているように思う。その許容性がなければ、現実をただ否定し、安易な娯楽に飛びつき、同じような価値観のなかで過ごすことを「許す」ことになる。

だから、あるべき性質は「許さない」ことなのだ。勇気とは現状を許さないことだ。

自信がなければ、自分の能力に不安があれば、現状を、まわりを許すことしかできない。許して協調することで、派風を立てないことで自分を守るしかないからだ。

現状というのは過去の集積であるので、それを許すというのは過去を肯定することだ。そういう前提で見れば許さないというのは未来を肯定することであるように思う。とはいえ、未来を肯定するために、わざわざ過去を否定することもない。それは未来と過去のどちらに自分の比重を起きたいのかという話である。

 

絶望したいのではないのか、とふと考える。いまだに何かを引きずるのは、まだどこかで希望があると思っているからなのではないのか。想像すること、妄想する内容にも限度がある。今と同じことは、50歳を過ぎたときには希望にすらない。衰えて何も出来なくなったときに、30年前の若い姿で遊びまわる自分を想像しても仕方ない。

 

そう考えると先ほどの問いは少し違ったことに気づくことになる。ここでいう僕の問いは、「わざわざ過去に居場所を求めなくても現状は肯定できるのではないのか?未来のありのままの生活を肯定することで、そういう生活観を持てるのではないか?」という問いであったことに気づく。50歳になったときには、その50歳にふさわしいクールな生活を身に着けていれば良いだけの話なのだから。

 

いま、SNSにいる人を見ると、大半の上手くいっていない人の原因は、そのポジティブ思考に囚われていることにあるように思う

 

こちらの部分も同様だ。つまり自分が問題だと感じているのは、そのポジティブ思考が現状(過去)の肯定にしかなっていないからだ。そして同じような価値観を持っている人と肯定しあうというのも要するに、過去の繰り返しか、それに少しだけ色を付けたようなことを繰り返す要因となりえる。

「あの頃はよかった」「何の価値もない人生だ」。この2つの考え方は、前者は純粋な過去に対するものであり、後者は(過去の集積としての)現在という点で違いはあるけれど、結局は過去の回想であるという点で、実質的には同じものだ。

そのように、いつも過去を見つめて、過去と比べていると、絶望して動けなくなる。変えようのない過去と、その結果としての現在を比べることに何の意味もなくて、単なるダブルバインド(二重拘束)にしかならない。

そういう生活を続けるのはつらいと思う。ましてや、その過去が大してお気に入りのものでもないのであれば。そうであれば、あるべき理想の未来とだけをいまと比べる対象として、絶望をする方がよほどましじゃないのか。もしそうであれば、現状を批判すること(よく見ること=過去のかわりに未来を許容すること)で、ただ現状とその未来との差を修正するだけで良いのだから。

 この話をまとめると、自分にできることというのは、肯定というポジティブな側面を持つ言葉で見るにしても、過去、そして過去の延長としての現在を許すのか、それとも(現状とは違うものとしての)未来を許すのか、といった単純な2択になるのだ。

何も難しい選択ではなくて、「どちらをより好ましいものとして信じたいか」というささやかな自分の本心にもとづく願望に関する話なのだ。どちらが良いという話しではないけれど、もし好きな未来を持ちたいのであれば、いまを許さない愉しさを持つことになるだろう。そして、ここまで考察をしている時点でもうその答えはわかりきっているのである。

「私を滅する」ことと個性的であること

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YouTubeFF9のプレイ動画を見ていました。懐かしい。

FF9ではアデルバード・スタイナーという王国王女を守る兵隊長のキャラがいる。

人の為に生きることは真に自分の為なのか教えて欲しい 何のために人は生きるのか...」という迷律も持つ彼でもあるが、この「私を滅する」ということについて少しだけ考える。

自己啓発書にしても、宗教的体験にしても、もしくは少年ジャンプにおいても、「私を滅する」というのは、一つの理想的体験ととらえられている。組織への貢献、志への貢献、もしくは仲間のためを思った犠牲的献身。「鬼滅の刃」や「進撃の巨人」のような作品はまさにそうで、多くの犠牲を払いながら全体の共益を測ることが、物語のテーマでこそないが、ひとつの流れとなっている。

「私を滅する」というとき、僕には2つの方法が思い浮かぶ。一つは、禅や仏教のように、無に帰属しようと試みること、そしてもう一つは、前述のように全体性に貢献しようとすることだ。

しかし、そのどちらにしても、「私を滅する」ことには個性を押し殺すような反面があることを想像する。自分のやりたいことを我慢して長時間働いたり、自分の欲求を抑えた分だけ他者のために使う時間が増えたり、と、そういう風に、個性というものをないがしろにした考えのように感じていた。

だけども、いまは少し違うように感じている。そもそも、個性と忘我はそのように対立しないのではないか、と。

つまり、どのように「私を滅する」かという方法が問われていて、その解決策が個性を発揮することではないかと思うのだ。

自分が納得できないこと、やっていてつらくしかないこと、そういうことを嫌々やっているとき、どうしても、自分というものが、そして思想というものがでてくる。

「なんでこんな目に会わなければ」とか「なんでこんな嫌な人たちがいるのだろう」と考える。純粋な怒りのかわりに、くすぶるような不満がでてくる。

だけども、自分がこれだと思ったもの、向いているもの、好きで仕方がないこと、価値があると思うもの、そういうものに向かいあっているときは、心理学的にいえば「フロー」という体験に入り、文字通り、自我だけではなく時間の概念すら不要となる変性意識状態となる。

直感に反する考え方になるが、個性は、私を滅することを妨げない。むしろ、個性を知ることが私を滅することを助けるのだ。

 

「見る」のか「見るだけ」なのか。

ユニクロのコラボである「+J」シリーズで話題になっていたけれど、こういうブランドものの展開とかパリコレみたいなデザインやアートに関わるものというのは、ネットで画像を検索するだけで1日潰せるくらい飽きなかったりする。

それと同時に、そういうことは今ではやらないようにしている。僕自身が以前Tumblrという画像共有するSNSを毎日何時間も眺めて、Reblogして、色々な現代美術や作家・作品等の違いについて徐々に詳しくなっていったものの、どうしても途中から単なる時間泥棒の気がして止めてしまった。

小説を読むことにしてもそうだった。好きなだけ本を読むことに対して罪悪感がある。だから辞めた。辞めても代わりにやりたいことなどなかったから、ただのつまらない人生になってしまった。

多くのものを眺めているだけでも楽しめてしまい、その先には何もないように思う。典型的なお金に関わる成功者とそうでない人に優劣を持ちたいとは思わないけど、それでもやっぱり成功している人と失敗している人は違う。

僕は失敗している人であるけれど、何に失敗しているのかはわからない。何に成功しているひとを成功者だと思っているのだろうと考える。自由であることなのか、表現ができていることなのか、生活をコントロールしていることなのか、社会に表現が認められていることなのか。少なくてもそれは頭の良さではないし、フォロワーやファンの数でもない。努力主義でもないし、好きなことをやっていれば良いという訳でもない。それでも違う。彼らは違う。自分とは違くて魅力的なように映る。例えどこかでひっそりと一人でいるひとであったとしても。

「見る」ことが、自然と自分の表現欲や欲求に繋がる人もいれば、そうでない人もいる。おそらくはその人にあったmedium(媒体)を持っているかどうか、という違いなのだと思う。文章もコピーも、ダンスも、愚痴も、文房具も、動画も、テクノロジーも、声でさえmediumだ。

『なぜ見ているだけでは駄目なのか。-それだけでは生活ができないからだ』

この会話は一見成り立っているようにも見える。しかし、表現はそんな生活に制限されるようなケチくさいものではないと思う。仕方なくやるものでもないし、努めてやるものでもない。ネットで他人に対して不満ばかり言っている人でさえ、それは表現の一つであり、誰にとっても馴染みのあるものだ。

 自然な欲求があり、それを助けてあげるのでなければ、何のための努力なんだろう。ぼくはすでにそれを絶対視しているわけでもないし、それに何かこだわりを持ちたいとかそういうふうに思っているわけでもない。だけどそれでもやはり、ケチくさいものではない。ケチくさいものであってはならないとは思う。

 

「やりたい」「したい」の面倒くささ

やりたいことやしたいことに明確な順序ができているときは、大体面倒くさい気分になる。これがやりたい、あれがやりたいという欲求が、目の前のことの面白さの判断に繋がってしまう。判断していいのは自分ではない。なぜならこの「自分」というのは過去の自分の嗜好と傾向でしかないのだから。

自分が普段、「フラットで淡々としたもの」に憧れを抱きつつあるのは、過去の価値観に囚われている状況を良しとしないから。余計な装飾が多すぎて、目の前が見えていない。

そういうと「目の前のものをもっとよく見たい」ということなのかと解釈をしてしまうがそういうことでもない。見たい・見たくないなんてことを言うまでもなく、「見えている」のだから、ただそれだけで良いのだ。

動作主体の価値観は疲れる。そこにはいつも何らかの二面性がある。形容詞があればいい。当たり障りのない愉しさや美しさを感じる形容詞があれば。

仏教というべきなのか、禅というべきなのかわからないけど、それにおいては「生きろ」とか「死ぬな」という強い主張はない。もちろん自殺したり死ぬことを否定するような形はあるにしても、それが死ぬことが駄目だからではなくて、生きていることの自分勝手な否定になるから良くないと言っているだけなのだ。

「あなたは生きている。生きているのになぜ死ぬ必要があるのか」というのが、それにおける視点であると思う。目の前にある淡々とした事実(実存在)以外はすべては妄想なのだ。(厳密にいうと、実存在というのも関連(縁)における仮想物だというのが、それにおける立場ではある。)