「良いひと」の違い

「人間関係がストレス」という悩みは少なくないようだけど、そういうときは大抵自分にとって心地の良い人がいい人で、そうでない人が悪いひとなのだろう

だって、挨拶をして無視をされてムっとするのならば「挨拶はお互いに返すものだ」という価値観を相手に押し付けているに過ぎないからね。

ということを考えたとき、ふと「心地よさ」の代わりにまったく違う視点で他人を見れないものかな、と思いながら1日過ごしていた。

例えば「エネルギーのある人がよい人」と思いながら接してみると、わけのわからないこと言ったり挑発するような人の方が、自分にとって有益な感じがしたし、騒ぎまくる子供も元気があって良いな、みたいに感じたりした。

あと、「この人からカモるならどういう風にやれば効果的か」みたいなのもなかなかよかった。服装とか言葉遣いから好きなものや性格を想像して、このタイプだったらこういう言い方でこういうものをセールスしたら買いそうだな、みたいな。感じ悪いなぁ、って普段なら思う傾向のある人でも、こういう視点だと、この人ちょろそうで良いなぁ、って好印象になるから不思議だ。

心地よさは好きだけれど、それがもしストレスの原因になるんなら別にいらないからね。まあでも考えるのってめんどうだよ本当に。

 

退屈するよりも退屈しない方が問題になりえる。(視点をもつことについて)

 

引きこもりニートはたくさんいるが、彼らは案外退屈していない、という話を聞いたことがある。

パソコンやスマホを開けばニュース(新しくて重要そうな雰囲気をもっているキラキラしたコンテンツ)がいくらでも見れるし、将来の不安についてもいくらでも、あらゆる方向に考えることができるだろう。

家にネット環境があることによって、ニートニートであり続けることができる。これがもし外部の情報と接するツールが全くなくなったら、もっと多くの人が耐えきれずに、それよりはまともと言えるような生活を始めるはずだ。

「退屈しない」というのは物事を続けるうえの一つのコツではあるけれど、諸刃の剣のような性格がある。

気に入ろうと気に入らないと温存しているものには、何かしら退屈しない余地がある。「退屈している」と言いながら何もしていないのならば、やはり退屈しない余地がどこかにあるからだ。

面白いのは退屈したときに、ころころとやることを変える人と、やり方を変える人にわかれることだ。おそらくこの違いは、やることに対する価値観、退屈であることと価値観との関連性についてのとらえ方の違いなのでは、と思う。

つまり、退屈なのはやっていることがつまらないから、という外に原因を求める傾向があるのか、もしくは、退屈なのはやり方が良くないから、という、内に原因を求める傾向があるかということだろう。

そのどちらが良いとかそういう話ではないし、退屈というのはよくよく考えれば単なる視点(どこを見ているか)の問題でしかない。局所的であるか全体的であるかという話しでもあるし、抽象度の違いの話しでもある。

良し悪しはそのコンテクストによって決まる部分が大きいので簡単な判断はできないけれども、少なくても”自分がいまどこを見ているのか”という部分に関するざっくりとした客観的なメタ視点は必要なように思う。

 

mistnotes.hatenablog.com

この一つ前の記事で自信について書いていたけれど、書き終わったあとにふと、過剰な自信も、自信のなさも、ともに周りが見えていない証拠だという、どこかで触れた言葉について思い出していた。

その言葉の是非についてはいまは問わないけれど、自分が見ているもの、見ようとしているもの、注目しているもの、あらゆるものごとにはあらゆる”視点”が関係していて、その視点には、無意識なものも含めてさまざな理由のうえで成り立っている。

いま自分は、天井を眺めるかわりにディスプレイを眺めている。

その理由は明白なように思うけど、同じようにすべてのものが意識的で、頭で理解しやすい確固たる理由があるようにとらえるのは間違いだろう。

僕がベッドのうえにいる時間が長いこと、ときどき憂うつに感じていること、その他のあらゆることに関するものの見方に対して、当然だと感じている前提の意識に関しては多くの疑問の余地があるように思う。

ここで、疑問があるのならば解消しなければいけないと思うのであれば、それもまた一つの視点にしか過ぎない。疑問があろうと何だろうと機能的であれば別に何でも良いという視点も確かにあるのだから。

 

退屈というのはよくよく考えれば単なる視点(どこを見ているか)の問題でしかない。局所的であるか全体的であるかという話しでもあるし、抽象度の違いの話しでもある。

 

視点の要素について考えると、先ほどはこの2つをあげていたが、時間軸もそうだし、距離感もそうだし、ポジションの違いもあるし、多くの要素があげられる。実態のあるものだけに関して言うのであれば、VAK『視覚(Visual)、聴覚(Auditory)、触覚(Kinesthetic)』なんていうのも考えやすい要素の区分ではある。

しかし、そのような多くの要素を大体は一瞬において無意識に判別して、関心と価値観の特定の区域を作り上げている。

視点をつくりあげる要素にはだいたいにおいて、いくらかのつまらない理由、つまりエゴ(過去的、局所的)であってエコ(未来的、全体的)ではない何かがまぎれこんでいる。それが意味のあるものであるのならばともかくとして、無意味なものであるかもしれないね。

この話しは、フラットな全体図を持とうという話しではないと思う。バイアスを外そうという話しでもなくて、むしろどのようなバイアスを持つか意識的に選択ができれば良いよね、という話しであるんじゃないかな。だって、その方が面白そうだから。

自信がないということについて

子供の頃から「もっと自信を持った方が良い」と言われ続けているような気がする。

ただ、「自信を持つ」という言葉の意味がよくわからない。自分を信じよう、って何なんだろう。ここでいう、自分とは何なのか、信じるとは何なのか、さっぱりわからかったりする。

自己肯定感を高めるということなら、それらしいやり方は思いつく。でもそれは、自信とはまた少し違うような気がする。また、何十回も反復している動作なら、自信をもって出来るとはいえるけど、それにしても単なる慣れの問題であって、自信とは違うのかなと思う。

何十回も修羅場を乗り越えてきた人ならば、新しい局面においても自分なら出来るはずだ、という自信があるだろう。この自信は何となくわかりやすくはある。こちらにしても新しいパターンが徐々に形成されていったという認知の問題ではあるだろうが。

そう考えていくと、自分の気にしているのは、子供の頃から自信満々で何でもやっているような”根拠のない自信”の方なのだと思う。こういう自信は、「何だろうと俺ならできるだろう」というような推測なのか、それとも「何が起こったってべつに死ぬわけではない」「知ったことない」みたいな楽観なのか、知性や環境がものをいうものなのか。

軽く検索してみると、周りの意見に振り回されることなく、「自分はできる」「大丈夫」と思えることが自信であるという意見が見つかる。これはどうなんだろう?

自分自身の失敗を振り返ってみるならば、むしろまわりの意見をきくことよりも、自分の感覚を優先してきたことが良くないことのように思う。もっと正確にいうならば、まわりの意見は率先して聞くが、最終的にはどれか一つにゆだねることができなかった、といった方がいいのかもしれないけど。(こう見てみると、集中力との関連性も感じられる。)

そのことだけを見ると、むしろ自分を信じていないということよりも他人を信じていない、ということが大きな要因のようにも見える。いや、それよりも、この人のいうことを聞いてみようという自分の感覚にコミットできなかったこと、と言えば、やっぱり自信の問題になるのかな。

 ”信じる”という感覚は不確定な要素が大きいのでロジックに頼り切ることはできない。最終的には”何なのかよくわからないもの”にぐっとのっかってみる必要がある。そのときに必要なのは、ありきたりな話しではあるけれど、結局勇気を持つことなんだろう。

 この勇気をもつ、ということと自信がある、ということには関係があるような気はする。そして、要は勇気を出すことに慣れていない、という問題が浮かんでくる。

「もっと自信をもった方が良い」では何をすればいいかわからないけど、「もっと勇気を出すことに慣れた方が良い」ならば、まだ腑に落ちる感覚はあるし、それが自信とよばれるものに繋がっていくような気もする。

無知ゆえに大胆である、ということで勇気があるように見えるということもあるし、それはそれで魅力があるんだけど、まぁきちんと選択肢を見据えたうえで、それが判断を下すことに支障がなれれば良いよね、ということなのかな。

でも、ここまで書いておいてあれだけど、べつに勇気なんて必要ないのではとも思うな。無邪気な好奇心であったり結果に対する無関心であったり、要するに勇気のかわりになるものはいくらでもあるし、結果が同じなのであれば、別に何でもよくない?という気もするのだ。わりとここらへんの適当さも変わっていないような。

ただそうであったとしても、「もっと勇気を出すことに慣れた方が良い」という言葉には一定の信頼はおけそうな気がする。というのも日常的に、ちらちらと必要性は感じているからね。

 

理由は後付けで良い

どのような意見でもよくよく考えてみれば、大抵のものはそれを肯定することができる。ということを考えると、いちいち考える必要なんてなくて、最終的には「山を登るのは、そこに山があるからだ」くらいな適当なノリで良いのではと思う。客観的な理由が求められるときだけ後付けで考えれば良いのだ。

変化すること

人生のところどころに自分でさえ多くのチャンスがあって、そのすべてをものにできなかったからこそ今があるのかな、という気もする。そういうふうに何かをするたびに後悔が増えていくとして、失敗や心の痛みだけが思い出になっていくとして、いったいどういう顔をしてこれからも同じようにやっていけるんだろう。

多分だけど、その節々で少なからず学習してきたのではないかと思う。こういうことを繰り返すべきではないとか、これはただつらいだけだとか。でも、それをどこまで反映させてきたのか、というと疑問が残る。PDCAで言えば、DとCの部分だけを質の低いままで繰り返しているようなものだ。

学習は確かに重要で、色々なアウトプットも含めて学習の過程ととらえるのはシンプルで良いような気もするけれど、やはりそれ以上に変化ということを考えた方がスッキリとしているな、と感じたりもする。学習することは変化をするために必要なことだし、そこまでをセットとして考えないと、そもそも学習したともいえない。知性とは何かということを考えるにしても「適切に学習してそれを反映させること」でなければ、いつまでもお遊びでしか過ぎない。

決断というのが、何かを断つことであるというのが文字通り真義であるのならば、自分がまず絶たなければいけないのは、自分自身だ。過去の記憶、過去のパターン。後悔をリソースと見なさないで、ただの痛みを従う記憶としてそのまま向き合おうとするのならば、たぶん同じ後悔を繰り返すことになる。注意を向けたものとは同調するような働きが心理にはあるからだ。

逆に言えば失敗や後悔が示唆するものがある限りは変化ができる。その示唆に目を向けるだけで良いのだから。

地味だ

新しいことを考えたところで即時的に何かが変わるわけではないし、面倒だなぁと思う。いまやっている仕事は明日になっても続いているだろうし、その仕事はあまり楽しいといえないし、たとえ毎日確かに十数時間の作業を続けられたところで、結果がでるとしても2年か3年してからだろう。その結果が自分のためになるかどうかもわからない。

その作業の間にも、メールを返信したり公共料金を払ったり髪を切りに行ったりご飯を食べたり、そんなことを続ける必要がある。

足るを知って目の前にあるものを淡々とできればそれでいいんだよ、という気持ちと、何かすごくやりがいのあるでかいことをしたいという漠然としている気持ちをゆっくりと行ったり来たりしている。目の前にあるものは何もかも地味で当たり障りのないもののように見える。もともとはそういうのが好きだったような気もするが、それだけでは生活できないんだよね。

この単調さも、漠然とした大きなものへの憧れも同時に満たすためには、この地味で当たり障りのないことをとにかく極限までこなす、ということになるんだと思う。工夫しながら、平然と、当たり前のことをこなすのだ。結局のところ、この2つは地味で地道で、それでいて地続きになっている。どちらかではなくて同じものなのだ。

 このブログの更新もそろそろ落ち着くとは思う。その代わりに、やってられなくて退屈で時には苦痛でしかないことを、またいつものように、もしくはそれ以上にやるのだろう。死にたいと思ったりみじめな気分になるかもしれないし、案外悪くないのかもしれないし、それはわからないにしてもやることになるのだ。おそらくは、ただそのどちらかということはなく、良くないことも、悪くないことも起きるのだ。昨日までと同じように、明日からも。昨日までと同じように、違うことも。だからただいつものように、落ち着いていたいと思う。

 

やる気がないなら借りてくれば良い

 

以前このブログのどこかで、システム心理学とか深層心理学とか名前は何でもよいけど、心理学は内面だけではなく環境を含めた外面もあわせて一つのものとして見る必要がありそうということを書いたのだけど、このツイートもそういう考えを裏付けるものの一つだと思う。

いま読んでいるジェイ・エイブラハムの本のなかで、『「自分1人でできる」的なメンタリティは6歳の子供なら褒められたものだが、21世紀のビジネスの世界では通用しない』と書いている。

この本はビジネスに関するものなので、あくまでもこの記述はアウトソーシングのような今では一般的なビジネス上の考え方を綴ったものに過ぎないかもしれないが、これは思想や心理についても当てはまるように感じる。*1

 

 

努力すること

 

mistnotes.hatenablog.com

 

こちらの記事の努力することは必要かという考察のなかで、「努力というのは主観的な評価なので何ともいえないけど、何かを為すひとは圧倒的な作業量をこなしているという点については共通している」という、ごく当たり前なことを書いた。

 

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steve jobs のTシャツ

 「週90時間労働、最高」って書いたTシャツをみんなで着て働いていたというAppleSteve Jobsにしても、TeslaやSpaceXを手掛けるElon Muskにしても、1流のコンサルティング会社にしても広告代理店にしても、とにかくみんな長時間の作業をこなしている。

最近ではレペゼン地球のDJ社長とか与沢翼とか、YouTubeで有名なひとをみてもそれは変わらない。彼らの熱量は半端なくて、僕には真似できない。

見よう見まねでしぶしぶ長時間働くことはできるかもしれないけど、同じようなエネルギーを自分で自発的に生み出しながらできる気がしないのだ。

むかし聞いたことあるHarvard Business ReviewのPodcastで「時間の代わりに熱量をマネジメントせよ」という趣旨のトークがあった。内容についてはあまり覚えていないけどそのタイトルが印象的だったのは記憶に残っている。

だけど、どうやって?

熱量を高めよ、といわれて、「はいそうですか(ブオーン)」って一瞬で変われるのならば苦労しない。われわれはスーパーサイヤ人でもヘアドライヤーでもないのだから、スイッチひとつで変われるようにはなっていない。

そこで話しはもとに戻るのだけど、だったら自分で無理して意欲的になる必要はないのではないか?と思うのだ。つまり、やる気が湧いてこないのならば、やる気であふれた人の近くにいればいいだけなのだ。

そうすればほら、自分も何かしたいというような、良い意味でそわそわする気持ちになってくるのだ。

 なんて他人任せな、というような気もするけれど、繰り返すように、自分で難しいことについて自分だけで何とかしようとしていても仕方がない。それが技術的なことだけではなくて、心理的なことについても同様に言えるはずだ。

Dale Dautenの本のなかで" I like me best when I'm around you"という台詞がある。私はあなたと一緒にいるときの私の方が好きなのだ、と。

近くにいる、というのは物理的な距離のことだけを言っているのではない。この人といるときの方が私は意欲的になれると思うひとを、ただ考えてみるだけのこと。

僕は結婚をしていないけどスマホの写真を自分の子供にしたりというのも基本的には一緒のことなんだろうな。動きまわれるような底からあふれるエネルギーも、魅力的な夢もいまの自分にはないけれど、そういうのを持っている人たちが、いまどこにいるのかは知っている。それは自分が思っている以上に、有難いことなのかもしれない。

*1:グレゴリー・ベイトソンの本なんかを読むと、こういう自我と世界との関わりみたいなことについては、もっと深い洞察がされている。出来ることなら、もっと言及したいところではあるけれど、この記事とは関係が薄いので省略する。