距離のないひと

ひとの魅力や情報の取り扱い方について考えている。

そのなかで、一つのキーワードだと思っているのが、”距離のないひと”の存在だ。

 

時間割引率(先々に手に入る報酬を、今すぐ手に入る報酬よりも低く評価する心理的な作用)などの行動経済学の用語などが表すように、私たちの生活は自分の周囲と前後数年程度の見通しのうえで成り立っていることが多い。

だから、1年後の10万1000円よりもいまの10万円の報酬を選ぶことをお得だとかんじるし、隣で苦しそうにうずくまっている人に手を伸べることはあっても、海をまたいだ国で餓死で毎日人が死んでいる事実には鈍感でいられるのだ。

当たり前の話しであって、これは心理的に安定して生きていくために合理的に作られた非合理性のようなものだ。このような”区別””差別”を自然にできることから、大して頭を使うこともなくスムーズな取捨選択ができるようになる。もしこれをAIに同じようにやらせようと思うと、検索するデータの範囲を”人間の自然の感覚”に近い範囲に区切る必要があるから大変だ。そのように特別に定義するまでもなく直感でできるというのは一種の特殊能力ということもできる。

だけど、この能力はある意味では個人の能力を制限することがある。明らかに将来役立つ行動に対して、いまここにある自由を制限する窮屈なものだと感じてしまい、本来価値のある努力を高尚なものだとして遠ざけてしまったりもする。

ここでいう”距離のないひと”、というのはそういう人間特有のバイアスから自由でいる人たちのことだ。10年後の理想の未来像をすぐ目の前にある未来のように強い臨場感をもっていつまでも感じられたり、日々のありふれた誹謗中傷のかわりに、会ったこともないひとの本質的な痛みに共感することもできる。

ソフトバンク孫正義社長のように、小説の架空の人物像(坂本竜馬)に強い憧れと尊敬の念を抱き、実際に未来を変えてしまう。イーロンマスクやスティーブジョブスのように、ファンタジーとしか思えないようなあるべき未来を本当にかなえてしまうのは、おとぎ話と現実を違和感なく併行させる”マジックリアリズム”という小説の技法(WIKI日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法)を僕には想起させる。

現実(目の前の周囲数メートル)にしかリアルを感じられなければ、このような生き方はできないが、あるべき現実というのも、また現実の一部なんだと思う。だから失笑する代わりに、「どうやったらそこに行けるのだろう?」と冷静に問うことができる、そういう人たちがいるのだ。