日々の小さな出会いと別れを忘れないためにできること

 

 


(削除したブログからの移行記事です)

 

寂しい機会に触れていくなかで思うこと

今日はいま通っている語学学校の友達の1人が帰国する日だった。

同じ日本人ということもあり、また同じクラスでいた時間も短かったので、あまり話すことはなかった。でも好印象の方で、簡単な最後の挨拶はすることができた。

「また機会があれば会いましょう」みたいなことを、お互いの連絡先も知らずに言う。そういう社交辞令みたいなものがわりと僕は好きで、今日もそういう感じだった。

なんでもかんでもSNSを通して繋がればよいというものでもない。むしろ、連絡することが簡単になったことで、別れの挨拶をすることもなく誰かと疎遠になるということは、多くの人が経験しているのではないか、と思う。

わりと友達が少なく、知り合いを大切にすることをできてこなかった自分でも、出会いは寂しく感じる。だから、他人想いで親友がたくさんいるような人たちというのは、もっと多くの寂しい思いをしているのではないか、と思うと、少し胸のあたりが痛くなる気がする。

それとも知り合いが少ないからこそ、いちいち気になってしまうのだろうか。そもそも大切にしようという意識もなしに、悲しむことは何か違うようにも感じる。

しかしここで矛盾というか違和感のようなものを感じることがある。昔に比べて挑戦することやできることは増えてきているのはわかるが、そうやって“いい人”に近づいていくと、同時に悲しいことが増えていくのだ。

「一切後悔をするな」などと説く人たちもいるが、僕はまだこの言葉を鵜呑みにしていない。後悔をすることも、反省をすることも、あらゆる学習と同じで特別視しないでできるようにしないと、と感じているからだ。

それにしても、少し話しただけでも魅力がわかるような人との出会いというのは衝撃的なものだ。今日のその友人が、自分にとって特別に印象的な人であったということではない。そうではなくて、そういう魅力的な人が、本当にたくさんいるということが衝撃なのだ。

他人のことが見えるようになると、なおさらそう感じることが増えていくように感じる。

特に最近僕がそういうふうに感じる人には共通の印象のようなものがあって、それは“静かな情熱”をたずさえているということだ。何かしらの信念のようなものがあり、それを言葉にするまでもなく自然と行動に現れている。そこには無駄がなく、周囲のひとを緊張させるような威圧感のようなものもない。

このような魅力のある人との出会いは、やっぱり少し寂しくなる。このことから、これからも自分の人生がもし向上していくのだとしたら、それだけ寂しさを感じることが増えるかもしれない。だから、やはりこのような矛盾についてはなるべく考えて、解消しておきたい。

そうして今日学んだことは、後悔、反省、別れといったあらゆる苦慮のもとになりえるものも、そして前向きにとらえがちな学習、成長といったようなものも、結局は同じ「気づき」であり、「気づき」である以上は本来的には嬉しいものなのだ、ということだ。

「気づき」というものは、好きや嫌いといった情感的なものも、もしくは良い悪いといった評価に関するものも、好ましいものを近づけ、好ましくないものを遠ざけることを補助するものだ。

いろいろな人に出会って、何が好きで何が好きじゃないかを知ることで、「自分らしさ」がわかり、その自分らしさに適した時間を作ることができる。

気づいているのに何も変えないというのは怠慢であって、また気づくこととそれに基づいて動くことの差が少なくなればなるほど、より「いい時間」に近づくはずだ。好ましいものに近づく体験は嬉しいものであり、そのきっかけになるものも当然うれしいものであるはずだ。

そうなのであれば、大きな後悔でも小さな反省であってもそこに「気づき」がある限りは、「うれしい」という感情に近づけることができる。どのような経験にも結局のところ固有の価値がない以上は、少しでも好循環に近づけるようにしたい。

どれだけ魅力的な人に会おうと、ただ羨んだり、雲の上のひとを見ているように他人ごとになってしまうと、何にも気づくことができない。せっかくの出会いも、何の変化も自分にもたらさないのであれば、出会いに価値を感じることは難しくなる。

ようするに、人は自分が変わることによって他者を受け入れているのだ。何かに気づき、自分もそういうふうでいたい、という想いを持ち始める。そして、それを形にしていくことによって、その他人と自分との境界線を解消していくのだ。

当然だけれど、その好きな人たちと共に生きることは、放っておいて勝手にできるようなものでもない。人は自分の夢でさえ、日々の刺激のなかで簡単に忘れることができてしまうのだ。

だからむなしさも寂しさも、きっと出会いと別れのなかで、相応しい感情ではないのだ。自分が素敵な人と出会い、時間を共にしたということは、自分自身の変化を通して、形に残すことができるのだ。

そういうことを考えていると、別れた直後のむなしさがスーッと消えていくような感じがした。