どうせ死ぬのになぜ一生懸命生きるのか

なぜ笑うんだい?

 


C・ロナウド 片言のポルトガル語で質問する少年を笑う記者たちを一言で拍手に変えるのが凄い!

C.ロナウドのファンの少年が、一生懸命つたないポルトガル語で質問をしているときに会場に笑い声が起きた。

その笑い声を聞いてC.ロナウドは「なぜ笑うんだい?彼のポルトガル語は上手だよ。」と言った。

 

といった動画が、以前話題になっていたことがあった。

 

この動画は微笑ましい動画ではあるけれど、この動画を見て以降、ぼくのなかに内なるC.ロナウドが生まれた。

 

彼は、「なぜ生きるんだい?」「なぜ後悔ばかりしているんだい?」と、何かとさっと答えられない本質的なことを、笑顔で尋ねてきているような気がしている。

 

そう考えると何だか意地の悪い笑顔のようにも感じるが、ぼくはすぐに答えられないので困ってしまう。

だからちょっと考えてみようと思う。

 

なぜ生きるんだい?

ぼくはいつも何か後悔している気がするし、たぶん、これからも同じように何かに気づき、反省する日がある。学習を続けていくことは、いまここにあるものではないものを見ようとする作業だからだ。

これから積み重ねるであろう何十年分もの経験を先に得ることができるとすれば、いま僕がここにいる時間はどう変わるだろうかと考える。そして、変わり、変わり続けたさきに何があるのだろうか。

ぼくは変化が人生の重要な要素であるとは思わない。それは生存のための必須の条件なのかもしれないが、だからといってそれが人生の目的ではないのだ。

そもそも理想的な環境のようなものを思い浮かべるのであれば、それはもう変化の必要のないものなのではないか。人間も環境も、もともと放っておいても変化をし続けるものだから、だからこそ大切なものというのは、それでもなお自分にとって「残したい何か」なのだと思う。

 

この人と仲良くなりたいな、と思っても、話しかけなければ友達にならない。スリムな体型を維持したいと思っても、何も考えずにビール飲んで特盛牛丼ばかり食べていたら、あっという間にお腹まわりが豊かになる。人生は変化し続けるので、放っておいたら自分の好きなものでさえ、あっという間に目の前から消えてしまう。だからこそ、われわれは個人の趣向にそって、それが過去に既にあったものでも、未来にあるべきものだとしても、その「残したい何か」を築いていくのだ。

 

それで、その「残したい何か」というのを考えてみる。短絡的な答えにならないように、いま関心が向かっているものを中心に考えないようにして。そうして、具体的にならないように、なるべく漠然としたまま思考をめぐらしてみる。そうすると、最後に残るのは「いい時間」なのだ。

この答えはなんだか漠然としているかもしれない。でも、よく考えてみるとやっぱりそうなのだ。

お金は大切だけど、お金が欲しいのは、ストレスのたまることで働き詰めになりたくないからで、愛がほしいのは、愛し、愛される幸福な時間がほしいからだ。食べ物が欲しいのだって、ちょっと良いベッドが欲しいのだって、ようするに、そういうものを使って、快適な時間を過ごしたいからなのだ。

音楽を聴くのだって、文章を読んだり書いたりするのだって、自分にとっての素敵な瞬間(いい時間)だから好きなのだ。

 

良い時間をいまここで過ごすこと

 


EVISBEATS【PV】いい時間

 

具体的な目標も、目的も、すべてはいま目の前にこの時間を充実させるためにあるべきであって、時間を犠牲にしながら何かを行ってはいけないのだとおもう。

将来の目標があるのならば、その目標のために今を犠牲にするのではなくて、いまこの瞬間を努力をしたり楽しく過ごすため、つまりこの時間を有意義なものに変えるための手段として捉えなければいけないはずだ。

僕はやりたいことも、成し遂げたいこともよくわかっていないが、温泉に入っているとき、楽しいことに夢中になっているとき、本を読みながらご飯を食べるのも忘れているとき、好きな人と会話をしているときなど、人生のところどころに「いい時間」が今までにも確かにあって、心地よい思い出となってきた。

どうしていいのか、何をやりたいのかはわからくても、「いい時間」はそのように美しくて、多少の苦労があったとしても心地よい。そして「いい時間」を減らしてまでやりたいことなど何もない。

これは多くの人に少なからずあることだと思うけど、もっとあれをやればよかった、これをすればよかった、とその時期が終わるころになってようやく気付く。

誰かがなくなってから、もっとこういうことができたのではないか、と自分を責めようとする。これは一般的な傾向のようだけど、それはなぜだろう。これも学習をしようとする人間のもつ本能のようなのかもしれない。

でもそうやって後悔するのは、そうでない時間に向かうためだということをときどき忘れてしまう。そうして、ただどんよりとした気分で嘆くだけで終わってしまうのならば、とてもつらいだろう。

 

永遠さに憧れながらも、儚さを尊く思うこと

 

 「若者たちは現実というものが少しも頼るに足らぬ儚い事物ばかりで出来た世界である
ことを、そしてわけても他ならぬ自分自身がそれらの儚い物の一つであることを痛烈に
意識し始めていた。彼らはなんとかしてこの悲しい状態から出口を見出そうとして身悶
えした。儚い事物の一つであることを止めて永遠の生命を享受する存在になろうとした。当時の代表的な詩歌には『永生』(khulūd) という言葉が繰り返し現われて来る。」

井筒俊彦イスラーム生誕』から

 

 

 

僕はもともと思考がネガティブなので、「ながく生きたい」と思ったことはない。だから今でも「永遠に生きる」というテーマが一定の人気を誇るのは、不思議に感じる。

 

ヤフー知恵袋のような質問サイトを検索してみると、「どうせ死ぬのに、なぜ一生懸命生きないといけないのでしょうか」といった質問を見かけることがある。

僕はこの問いが不思議で、病気や身内の不幸など、逃避したい原因があるのならばともかくとして、人生の有限さについてむなしさを感じる、というのがよくわからない。

もし時間が無限にあったら、あるいは自分で好きなように調整できるとすれば、たぶん多くの人はもっと怠惰になる。なぜなら、「いま・ここで」良い時間を過ごそうとする必然性がなくなってしまうからだ。

ぼくは自分の死について今のところは何も思わないが、それでも一緒にいて楽しいと思うひとがいなくなることは寂しいと思う。


もし僕が結婚したり子供ができたりしたら、この価値観もまた簡単に変わるだろう。いつかは僕も永遠を夢見ることがあるかもしれないし、それはそれでよいことだ。

 

でも、永遠は決して訪れない。そして、それを知っているから、いまここで、この時間を有意義と感じるものにしようとしているはずだ。時間があるうちに、その時間の使い方を変えようとするし、時間があるうちに、自分がやりたいことをやる。

 

 

緊張感のない時間はあっという間に過ぎ去る

 

「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。」
マルクス・アウレーリウス(『自省録』岩波文庫

 

そういうことを考えるにあたり、慢性的な無気力さを抱える人間の問題というのは、この時間の有限性を忘れていることにあるのではないかと思うようになった。完全なイコールではないにしても、それは無意識な「死への畏怖」の欠乏と言い換えることができる。

ライブドアの社長であるホリエモンの書籍のなかで、はじめて死を意識した小学生の頃の記憶の描写がある。死の恐怖というのはそれ以降もずっとあって「考え抜いて、無駄な時間を一切つくらない」ことで、死の恐怖を遠ざけているという。

この無意識のなかに潜む恐怖というのは、精力的に生きる上で、重要なもののように感じる。そして多くのひとは、無意識にこの意識を持っているように思うのだ。

ところが、毎日何をすればいいのかわからず、時間が過ぎていくに任せている人というのは、この恐怖の尊さを忘れている。死ぬときに感じる痛みについては想像できているので、唐突に死ぬようなことはない。でも、同時に、死ぬことそもそもについては、何の感情も抱いていない。

この無意識の領域における恐怖というのは、一種の緊張感として体に現れる。この自然に生まれてくる緊張感は「姿勢を正す」ような心地の良いものだ。でもその恐怖がないとこの緊張感が生まれない。緊張感が生まれないから、だるくなるし、無気力になるのだ。
このバランス感覚というのが見過ごせないポイントである。多くの人は、その価値を過剰評価したり過小評価をすることで、バランスを失ってしまう。

有限さを生きる

死ぬということは、何なのか、というと「いま・ここ」にある時間がなくなることだ。

無気力にずっと生きていれば、その恐怖を想像することは難しいかもしれないけど、それでもこの有限さを意識することはできる。

否定的な感情を抱いて、こんな社会はつまらない、と「いま・ここ」を捨て去りたいと思う日がときどき訪れることは変えられないかもしれない。

それでも、実際にこの時間がなくなるまでの間の有限さを想うことができる。そして、有限だからこそ、どうしよう、こうしてみようか、と試みることに価値を感じられる。

本来は、この有限さこそが「いま・ここ」を大切にすることの基本的かつ重要な動機であるはずだ。人間はもともと希少なものに価値を感じるようになっている。その最も根本的なものが、この時間であるはずだ。

恐怖に向かい合おうと言っているわけではない。でも正しく、物を見ようとするならば、その恐怖は、「いま・ここ」の使い方を再認識して、この時間と環境を使おうとする自然な気持ちを、私たちに抱かせる。

 

「どうせ死ぬのに、なぜ一生懸命生きないといけないのでしょうか」に対する答え

そのことを踏まえて、さきほどのヤフー知恵袋の質問を考えてみる。

「どうせ死ぬのに、なぜ一生懸命生きないといけないのでしょうか?」という質問に対する答えだ。

内なるC.ロナウドもニッコリ笑ってくれるようなシンプルな答えが欲しかったけど、今となっては、もうその答えは簡単だ。

 

どうせ、死ぬからだ。いつまでも永遠に続くような物事など何もない。だからその永遠に焦がれて、想いを形にしてみようとすることもできる。また、せめて生きている間くらいは楽しく過ごそうという想いも持つこともできる。

時間が永遠にあるのならば、わざわざいまやることを考える必要はない。効率よく物事をこなす必要もないし、あれをやればよかった、なんて、自分が好きじゃないことのために時間を浪費することを後悔する必要もない。確かに何でもかんでも笑って受け流すことはできる。見なかったことにすることもできるだろう。でも、それが本当に楽しいことなのだろうか。嬉しいことなのだろうか。自分にとって、また自分の好きな人たちのために、有意義なことだといえるのだろうか。

時間は有限で、だからこそ頑張ることに価値が生まれるのだと思う。試して、失敗して、後悔する。涙を流して、もうこんなことは繰り返さないと心に誓って、格好わるくても、あきらめも悪く何度でも立ち上がる。そしてそういう試行錯誤のなかでうまれてきたものってやっぱり美しいものなのだ。

 

そして、良いものが、良い時間をつくる。良い気持ちを。良い関係性を。思い出しても心が痛くならないような、その人にとっての良い時間を。