無欲に欲を追う/サドとカント

理性で欲求や衝動を押さえつけてどうするんだという、素朴な疑問がふと浮かんだりする。

むしろ欲求それだけでは近視眼的で儚いものなのだから、それを理性でサポートしてやらないといけないのでは、とかそういう素朴な疑問がふと浮かんでくるのだけど、それほど間違っている気もしない。

タイトルに書いた「無欲に欲を追う」というのは、わりと昔からの憧れのテーマのような気はするけれど、そもそも自分の欲がよくわかりませんみたいな適当さで頓挫しているのかもしれないし、何か間違っているだけなのかもしれない。

ふと思い出したように、手元にあるサドの電話帳なみに分厚い本をぱらぱらと読んでいた。サドといえば悪徳を賞賛している人のようなイメージがあるが、個人的にはそれは違うと思う。サドは、カントと同じように、ただ自由を愛していた。そして、その自由の拠り所を理性に求めたのがカントであり、自然や本能というものに求めたのがサドなのだ。 なんてまたどうでも良い方向に話しが飛んでいきそうになる。