取り留めもないこと

取り留めもないことでも思ったことは言葉を通して反省しないと、と思う。

昨日感じていたことと今日感じていることが異なることはまったくもって問題ではないけれど、その方向性が自分の望み通りなのかどうかは考えようがある。

おそらく今日のテーマは成長ということだと思う。

 

好きなバンドの成長

 

10年近く前にブレイクして、最近大きな動きのあったバンドのインタビューを偶然読んだ。いわゆる自虐系の暗いバンドではあるけれど、曲調も変化しているし、良い方向に変化していることを感じる。

僕はある一つのグループやスポーツクラブのようなものの熱狂的なファンになったような経験はないけれど、そういうファンというものは、その組織の成長とともに自分も変化していくのを感じるものだろうか。

疑似体験や代弁者という存在が必要とされているトレンドの中では、そういう相互に影響を与えるような関係ならば長く続くのだろう。

一方の僕はというと、そこまでコミットしていないから、その変遷については知っているけれど、あくまでも蚊帳の外の傍観者のようなものだから、一つのムーブメントが始まってから終わるまでの間を、ただ同じように過ごしている。

 

ファンの役割

 

同様に、アイドルでもオタクでも何でも良いのだけど、一つのものに”視聴者として”傾倒している人たちがいる。

正直にいって、そういう人たちというのは遊園地に行ってもアトラクションに乗らずにただ眺めているだけのようなタイプのように感じていた。

一人のファンでいるよりは、一人のクリエイターでいる方が良い。大きなものではなくて、小さなものでもよいから、自分で何かを作ることが大切なんだと。

でも最近はそうでもないのかな、と違う視点で見るようになった。

実際に自分のいる立ち位置よりも、”自分がここにいる”という仮想の立ち位置こそが重要なんじゃないのか、と。

つまり、ファンであっても、”自分が応援にいかなければチームが負けてしまう”とか、”このアイドルの成長には自分の存在が不可欠である”と感じるような人もいる。

その一方で、アトラクションに乗っている当事者であろうと、気持ち的には蚊帳の外にいる人だっている。

 

蚊帳の外にいること

 

好きなことがなかったのかといえばそういうことでもない。むしろ以前の僕は小説ばかり読んでいたし、性格の問題から退屈を感じるようなことは全くなかった。

でも、月に30冊とか買いながら、あるときから不安を感じるようになった。そこで語られているような物語は自分には全く関係のないものであって、こういう仮構のものに一喜一憂しているなんてくだらないように思えた。それで読むのを止めた。

今となってみれば、退屈で魅力のない生活を送っていた原因を自分の趣味に押し付けただけのような気がする。

だけども、それ以来特に何にも熱中はしていないし、ぼくは何かに深く熱中することを無意識に恐れているような気がする。

 

 

成長のメリットとデメリット

 

成長とか幸福といったことは、割と誰でもとくに疑問に感じることもなく、その大切さを受け入れる。それはどのような人にも必要なことであると疑うことがない。

成長とか幸福というのは必要なのか、ということは以前にも考えたことがあるし、その必要性を説明することはできる。

だけども、頭で説明するわりには、心は何も動いていないように感じる。

 

考えること、教えること

 

考えること、教えることには必ず制約がある。

 

いまの自分の器以上のことは考えられないし、教えることができない。だから自分の過去の経験則をいかに覚えていたところで、同じことの反復になることが少なくない

 

危険なこと

教えることに比べれば、教わることはまだ可能性の余地がある。

とはいえ、他者から教わることについては疑問を持っていた方がよい。Twitterのとある分野の初心者コミュニティなんかを見るとその悲惨さはうかがえる。教える方も教わるほうも、前提としているスケールがそもそも間違っていることが非常に多い。

とくに自分が、専門とできるような分野ではよく感じることである。

 

あることを促進する重要なもの

例えば、行動というものを一つとっても、あるインフルエンサーは熱意や努力の大切さを熱弁することがあるが、そこまで考えて物事を言っているようには思わないし、何なら本人でさえ自覚していないのではないかと思うこともある。

行動を起こすことに高揚感を覚える人もいれば、行動を行さないことに不安を感じる人もいる。その場合に後者の方が圧倒的に行動量が増えるようなことは珍しくない。

マズローの欲求階層で言えば、自己実現という高尚なことではなく、生理的欲求、安全欲求という本能に近い部分の感覚で動いているからだ。

 

ただ、仮に僕がインフルエンサーであって、登壇してスピーチすることがあったとすれば、やはりそんなことは一切言及せずに、同様に夢や自己実現に関連づけたことを言うだろう。

そちらの方が反応が良くなることは明らかだからだ。

 

終わりに

思ったよりも成長ということに関してはこのなかで考える機会が少なかった。

ただし道筋はある程度僕の中には既にもうできている。