何も変わらない。何をしても、何もしなくても。
このような、僕はいつも同じような日常から抜け出せないのだな、という気分は今日でも続いている。だけども、それに対してどういう意味付けをするのか、ということはまた別の問題なのだ。
バイトが死ぬほどつまらない
最近はほとんど毎日のようにバイトをしている。はっきりいって、面白くない。これよりも面白いことはいくらでもあると思う。これより、つまらないこともいくらでもある。
多少のアップダウンで一喜一憂していても、基本は変わらないのだと思う。何も変わらない。常に疎外されたまま、つねに何も変わらない。
会社に勤めていたときはどうだっただろうか。政治家とも長く関わっていたし、テレビ局に行ったこともあるし、外資系のオフィスで商談していたこともあった。客観的に見ると、面白い生活だったのかもしれないが、あまり幸せに感じていなかったように思う。
自由にやれていたのならばまだしも、特定の決められた時間内でやっていたからかもしれない。
何も変わらない。何をしても、何もしなくても。
逆に、どれだけ努力してもめっちゃつまらないよ、一生つまらないままだよ、と言われれば少しは工夫して楽しもうという気分になるかもね。
— みずいろ (@pantyu43) October 20, 2020
何をしても、何をしなくても、何も変わらないよ、というのは一つの考え方だ。
ニーチェのニヒリズムもこれに近い思考実験だと思う。ここではなくてそこが良い、そこではなくてここが良い、という相対的な評価に依存せずに、すべての状況が等しく平等なもので、状況そのものに良いも悪いもないのだと極端に考えてみる。
そうすると、「だったらもう自分でそれを楽しむしかなくね?」ということになる。面白いもつまらないもないのならば、ただできることはそれを肯定する気持ち(意志)を持つかということになる。
Steve Jobsのいう"Connecting the dots"もこれに近い考え方だと思う。一つ一つが、全体に対してどういう意味合いを持つのか、というのは、客観的にその段階にいながら評価することはできない。これをやったら、あれが起こると完全にコントロールできるものでもない。
そういうように、最初から保証されているようなことなど何一つない。何一つないから、個人にできることなんて、せいぜいその瞬間に真剣になって生きることくらいなのだ。
才能も幸運も幸福も保証されてない個人が完全に自由に選べることが出来るのは、どのような気持ちをその瞬間に持とうとするのか、ということだけ。そう考えてみると、随分と単純なものだ。
問題なのは、その自由を十分なものだと考えるのか、不十分なものだと考えるのか。
どっちでも良いけれど、どっちでも良いのならば、それで十分だ、と言えればいいな。