日常とは何だろうか?

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先ほどの文章の続きを少しだけ書こうと思う。

残念ながらこの文章は「日常」というアニメのレビューではない。

 

日常を受けいれることと、諦めることは全く違う

 

普通の人生の外側にあるものは、また別の普通の人生なのだ。

 

ぼくは先ほどこう書いたけど、日常を受け入れるということは、単純に「なにかを諦めて大人しくする」ということ以上の意味を持つ。日常というものは、私たちが普段漠然と考えている以上に、奇妙で不思議で面白いものだ。

 

面白いという言葉をここでは使ったけれどこの言葉は「楽しい」と「新しい」の重なり合った感情だ。しかし、普通に考えて、まったくもって何もかもが新しくないという状況は、どこにも存在していない。

たとえ、同じ映画を繰り返し見ていたとしても、観ている側の心境というのも日々変わるものだ。同様に、普段の生活というのも同じにはなりえないのだ。

それでも、もしそれが面白くないと感じるのならば、無意識に自分でつくっている「楽しくない」「新しくない」という感情を通して現実を見ているのかもしない。

そして、それはもしかしたら、思考過程の詳説はここでは割愛するけれど、「平凡な現実を受け入れない」ための防御策のようなものだと思うのだ。

 私たちは物事を受けいれるために単純化する傾向があるからだ。

 

 

 

日常とは受け入れがいのあるカオスである

 

こう考えていくと、「日常を受け入れる」というのはまったく別の意味合いをもってくる。

毎日死ぬ気で努力しても、それがまったく受け入れがたい失敗に終わっても、空から隕石が1日3回降ってきても、突然、ブチ切ているヤンキーの高校生10人に壁際に追い込まれても、もしくは反対に素敵な異性と突然デートする機会に恵まれようとも、急に何もかもが上手くいったととしても、すべてがただの日常なのである。

ただの日常に対してできることは、ただ受け入れることなのだ。それなのに、「どうしてこんな目におれが合わなければ」とか、「こんな幸福が長続きするはずがない」とかそういう風にいって何かとそれが「特殊な状況であること」を演出して、日常の外に追いやろうとするのだ。

多くのひとは数年に1度くらいディズニーランドにいくことはあっても、365日ディズニーランドで遊ぶことを非常識だと考え拒絶するのだ。

上記のディズニーの話しは、単なる例であるから、現実的な問題もある。それにそんなに行っていたら飽きちゃうっていうのもあるだろうし。

 

だけども、日々のなかで私たちが「受け入れがたい」「こんなのは耐えられない」と思っていることの、どこまでが本当に特殊な状況であり、日常になりえないのか。

そのことに関しては、いま一度再考してみることで、「あまりにもつまらない特殊な状況」と「単なる面白い日常」の垣根は、案外簡単に超えられるのかもしれない、と思うのだ。