なぜ真剣に生きるのか

 

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相変わらず、不調な気分で低空飛行をしている。

ということで、一生懸命に、真剣に生きる意味について、少しだけ再考してみたい。

そんなことが必要なのかどうかもわからないけど、どうせ他に何かできる気分でもないからね。

 

命をかければ、退屈さは消える?

 

mistnotes.hatenablog.com

 

上記の記事では、「どうせ死ぬのに」という問いかけに対する一つの回答として、「時間は有限だからこそ、工夫することに意味が生じる」ということを書いたけれど、あまり必然性のない回答かもしれないと感じていた。

そのように、「真剣に生きる」というのが一つのオプションのようにあって、いつでもそこから逃げ出すこともできる、というようなスタンスでは僕はたぶんこれからもずっと、ぶれまくると思うからだ。

真摯に考えれば、それは理想論に過ぎないのかもしれないが、答えというのは収斂していくものだと思う。「何でも良い」というのは「何にも考えていない」のと同じようなものだ。考えることをやめれば、努力に頼ることになる。

そもそものところ、なぜ考えるのかといえば、「考えることを通して、別の印象や方法、結果を得ることができなければ不快だから」だ。別にこのままで良いと思っていれば、おそらく何も考えていない。逆に言えば、ぼくは常に何かしらの不満を持っているから、考えることによって逃げている。

逃げるという言葉は、消極的なものではない。みんな何かしら逃げているという前提で、いまは話している。「立ち向かう」という言葉を使っても良いけれど、それは「立ち向かわない苦痛」よりも「立ち向かうこと」を選んでいるだけであって、要するにどこに注目しているか、という些細な違いだ。

話しが少し脱線したけれど、「真剣に生きる」というのは、この逃げ道としての最後の砦なのではないかと感じている。つまり、希死念慮、退屈さ、挫折感、不条理といったありとあらゆる日常的な負の側面から抜けだしたいと思うのならば、「真剣に生きる」こと意外に選択肢はないのだ。

 

真剣に生きることの意味

 

実存主義に関わるようなニーチェの「ツァラトゥストラ」やオルテガの「大衆の反逆」のような本をいま思い出しているけれど、そもそものところ、こういうブログの記事も含めて、「どう生きるべきか」なんていう思索はまったくもって時間の無駄だ。

何度だって言われているように、そんなことを考えている暇があったら、さっさとちゃんと生きれば良いのだ、という指摘もあるだろう。

ニーチェのような思索者は、ひたすら考え続け、おそらくその人生の大半を考えることに費やしたのではないか、と思う。でも、そのように、かりに実践がなく、その大半を書斎で過ごしていたとすればその人生は無意味なのか、と言われればそれも違うと感じる人が多いのではないか。

その理由は、少なくても彼らは真剣になって考えていたからだ。その時間の間は彼らは夢中になって時間が経つのも忘れて取り組んでいた。

真剣になることによって何かを生み出していた。その間は憂うつな気分になることを忘れられて、その取り組みによって愉しさを覚え、そのことによって、より納得のいく”真理”と言えるような省察への好奇心がうまれていた。

逆に言えば、真剣になるべき対象なんていうのはどうでもよいのではないか?

向き、不向きというのがあるのはわかるけど、そこまでこだわらなくてもよいのだと思う。だから、勢いにまかせてとりあえず初めてみて、違うな、と思えば、また違うものを始めればよいのだ。

努力では夢中に勝てないかもしれないが、努力によって夢中は作りだせるように思う。そして真剣になる対象と向き合うことがひとつのゴールだと考えるのであれば、「努力は報われるのか?」という問いの意義もまた薄れ、努力をしている時点で報われている、と言うこともできるかもしれない。

つまり、真剣に生きるための理由なんて、「そうじゃないと、つまらないから」くらいで良いのかもしれないのだ。そして、その理由は自分で考えている以上に大切にしなくてはいけないものではないかと思う。

 ただ真剣になって、ただ命をかけることができれば。

そう思うと、また少し元気になれたかもしれないのでした。