普通の人生を送る
なんでもない日、おめでとう
昨日、ふと「これからは普通の人生を送ろうかな」という気分になった。この言葉は実際には正しくなくて、ぼくの人生はいたって普通である。
でもその普通であることに多少の違和感を感じながらいきているので、辛くなる。こんなはずではなかった、とか、貴重な時間を大切ではないことに浪費しているとか、そういう気持ちが湧いてくる。
反省をすることで良くなることもあるから、それ自体は悪くない。
でも、普通の人生の外側にあるものは、また別の普通の人生なのだ。
”特別”であることに、過剰な期待を抱くと、騙されやすくなる。特別限定モデルの時計やら、今だけしかできない貴重な経験やら、誰かの扇動することやマーケティングに心を振り回される。
だから何でもない瞬間を受容することから、ようやくフラットな目で回りが見えるようになる。そんな気がするのだ。
言ってしまえば、そういう意見さえも珍しくない。禅では日常を生きる、ということが昔から大切にされているし、コピーライターの糸井重里さんも「なんでもない日、おめでとう」と言っている。
ツイッターのインフルエンサーが扇動する新しい生き方、新しい考え方なんていうものに飛びつくのもどうかというものだ。
どうもインフルエンサーを目の敵にしているような気がするけど、仕方がないのかな。