才能もセンスももっていなかった

 

才能もセンスも持っていなかった


最近はやたらと才能もセンスもないなぁと感じることが多いです。

いや、前から薄々気づいていたけど、最近はとくに。

 

いまぼくが何をやっているのかというと、3年近くなった海外生活を経て日本に帰ってきてから、その間にできなかったことをやろうとする意欲が湧いてきています。

とくに作曲に興味があったので、MIDIキーボードを用意したり、サンプラーを購入したり、と音楽制作のための環境を整えました。

だけども、DAW(音楽制作のためのソフトウェア)の環境を整えたり、その操作方法を覚えようとするだけでも精いっぱいであって、プラグインをダウンロードしてみても、エラーメッセージばかり出て、そもそも音を鳴らせないようなことが多い。

音楽に関わらず、イラストでも何でもいざ始めようとすると、とても多くの覚えることがある。

別にそれがつまらないと言いたいわけではなくて、ぼくにしてもただ鍵盤を押して、音を鳴らしているだけでも、とても楽しい気分になる。

ただ、ここから、少しづつ上手くなって、自分の理想とする音楽をつくるという過程が想像できないのだ。

そもそも、「理想の音楽」とは何だろう、と思う。何かの創作に携わる人というのは、少なからず表現したい何かがあって、それが動機になっているのではないか、と思う。

最近読んだ「作曲少女」という本にも、そのあたりのことは書いてあって、その著者は、表現というのは何よりも自分のためであって、100%自分の好みにあったものというのは、他人につくることはできない。だから私たちは創作を好きになるのだ、といった旨のことが書いてあったように思う。

個人的な感覚としても、それはとても正しいことを言っている。

だけども、だ。確かにぼくは音楽が好きで、毎日何時間も聞いてはいるけれど、それらの音楽に不満を感じたことはない。

むしろ何を聞いても、「みんな天才!完璧!」と思ってしまうことから、「こうすればもっと良いのができるだろうな」なんて感じたことがないのだ。

そもそもの話し、創作に携わる人というのは、ただ楽しいことに夢中になっている間にどんどん上達していくものじゃないのか。

それは、理想論であって多くの人は努力をしていることは知っている。

それでも、何も作れない段階から、「そもそもなぜ作るのか」なんてことの方が気になって仕方のない性格が、つまり愉しさよりも理屈に目が向いてしまう性格からして、まず向いていないように感じるのだ。

そうして、やっと自分なりの納得できる理由が見つかったところで、それがそこからの創作にプラスとなる訳でもない。

むしろ、みんなが家に帰るころに夕方頃になって、始めて外出の準備ができたところで、大半のお店はもう閉まっているみたいな状況なのだ。

結果として、初心者どまりで上達することもなく、諦めてしまうのだ。

 

これからどうするのか?

いまぼくは音楽について書いたけど、同じようなことが自分の人生のすべてに当てはまる。

なんで生きるのか、とか、そんなことばかり気になってしまう。そうして、目の前には訳のわからない本が山積みになっている。

大して、頭が良いわけでもないのに、だ。むしろ、読んだ本のことなんて、片っ端から忘れている。読んだ量よりも、忘却している量の方が多いくらいだよ。

しかし、そういうことも、もしかしたらただ目の前のことがやりたくないからだけなのかもしれない、と最近は思う。

これだけ才能もスキルも感じないのに、これから何をやっていけばいいのだろう、と本気でおもう。

アドラー心理学の本に「私が悪い」「あなたが悪い」でもなくて、「これからどうするか」を考えよう、と書いている。

まったくその通りでグーの音もでない。

グーグー。